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(一) 鋸鍛冶 高垣市五郎



 この鋸鍛冶については、いままでほとんど知られれていませんでした。銘を「一弘」といい、桜田善右衛門町14番地(現在の西新橋2丁目)で鋸を作っていました。京橋区南傳馬町3丁目(現在の中央区京橋)にあった大阪屋作右衛門商店の「抱え鍛冶」をしていたようです。職人を7人も雇い、第1回内国勧業博覧会には小鋸から尺5寸鋸まで11の製品を出品して、鳳紋賞牌を受賞する腕の良い優秀な鋸鍛冶でありました。

 はるか昔から日本では、横挽きと縦挽きの鋸が別々に片刃鋸として存在していました。それが一体となって両刃鋸として出現した時期は、明治30年前後であったと言うのが通説でした。(土田一郎著「日本の伝統工具」1989年)。しかし村松貞次郎著「大工道具の歴史」(1973年)で、明治10年開催の第1回内国勧業博覧会の出品物の中に両刃鋸があったと指摘しています。私見では両刃鋸がはじめて作られたのは、木造建築が隆盛した明治初頭期の東京であったのではないかと推察しています。もしかすると、この両刃鋸は高垣市五郎の出品物の一つであったかも知れません。(※2参照)

※2 後日、第1回内国勧業博覧会に出品された両刃鋸の製作者がわかりました。東京の下谷坂本町3丁目で鋸鍛冶をしていた八木勘治郎です。しかし、この鋸鍛冶はどのような経歴の持ち主なのかわかりません。図や写真がなく、どのような両刃鋸か判明できませんが、「横挽は一寸間に12枚、縦挽は刃が10枚云々」とあることから、畦挽鋸ではないかとの説(吉村金次氏)があります(吉村金次著「鋸」1967年)。


 「東京名工鑑」に載っている高垣市五郎は当時27歳で、父市五郎の下で修業をし、明治9年に鋸鍛冶の家を継いでいますが、江戸時代から続くこの高垣家がどのような経緯から鋸鍛冶になったのかはわかりません。明治維新前後は大変景気が良かったとのことです。

 しかし、当時としては職人を7人も雇い、手広く鋸鍛冶としてやっていて、かなり繁盛していたと思われますが、その後どうなったのか残念ながらわかりません。



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