スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク





(二) 鋸鍛冶 森宮久作



 「名工鑑」に記載されているもう一人の鋸鍛冶は、15代中屋久作として有名な名工森宮久作です。京橋区北槇町15番地(現在の中央区京橋)に住所がありました。森宮久作は、第1回内国勧業博覧会には出品していませんが、東京鋸鍛冶の名工として広く知られていたので記載されました。

 中屋久作家は天正年間から江戸に住み、鋸を作っていた名門鍛冶です。徳川家康が豊臣秀吉の命によって、天正18年に三河から江戸の地に移ってきましたが、その時に江戸の町を築くためにたくさんの職人を伴ってきました。鋸鍛冶中屋久作はおそらくその中の一人であったのではないかと推察します。

 鋸鍛冶の号屋「中屋」は、室町時代中頃の道具鍛冶の中心地であった京都伏見で作られていた鋸、つまり伏見鋸にその起源を遡ることができますので(平澤一雄著「産業文化史/鋸」)、おそらく中屋久作家もこの系統に属するのではないかと推察できます。
 当時、森宮久作は40歳で、父久作の下で13歳から修業し、5年前に父が亡くなったことにより15代として後を継いでいました。弟子が2人、職人が4人いましたので、手広く鋸鍛冶をしていたと思います。景気もかなり良かったようです。

 明治の初期頃まで、鋸は玉鋼を薄く平らに延ばして水焼き入れするため、焼きむらやヒビが入るなどして失敗も多く、打刃物の中でも特に高度な技倆を必要とする鍛冶でした。しかし15代久作は、鋸鍛冶の名工として知られた浅草阿部川町の中屋平治郎宅を訪れたとき、秘伝であった天麩羅油で焼き入れをしているのを、その香りによって偶然に知り、油焼き入れ法を習得したと言われます(土田一郎著「日本の伝統工具」)。

 鋸の水焼き入れは、800度前後に熱せられたのを、人肌の水温(40度前後)に入れますので、急速に温度が下がり、硬度が出て良い刃がつく反面、失敗も多かったようです。一方油焼き入れは、油の温度が60度から80度位の中に入れますので、水よりはゆっくり冷え、硬度は水焼き入れの時より劣りますが、粘り強さが出ます。失敗も少なくなります。

 中屋平治郎が使っていた天麩羅油は、家の外まで漂ってくる香の強さからゴマ油であったのではないかと推測します。これ以後、油焼き入れが普及していきます。

 鋸の材質も、明治の中期以降、玉鋼から角棒状の洋鋼へ、大正時代には平らにする必要のない平鋼が普及するようになります。さらに鋸板を高度にすきとる機械も作られるようになり、鋸鍛冶はかつてと比べて、鋸作りが次第に楽になっていきます。

 その後の中屋久作家については、“大工道具鍛冶に関する史料「怪物傳」”をご覧下さい。



←前のページ   このページのトップ   次のページ→

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved