
        
(三) その後の東京都鉋製造協同組合 |
鍛造や焼き入れなどの意見交換と親睦を深めながら共同商標 |
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マークで鉋を鍛っていましたが、電動カンナの一層の性能向上と建築工法の急激な変化のために、手作りの鉋はますます使われなくなりました。やがて組合員が一人欠け、二人欠けするうちに、十代目石堂輝秀の菊池清一氏が組合長で、秀延の湯沢秀男氏が会計であった昭和40年代の終わり頃に活動は自然に停止され、その後二度と再開されることはありませんでした。東京都鉋製造協同組合は、昭和30年代初め頃から昭和40年代終わり頃までの約20年間の活動でした。 |

十代目 石堂輝秀 作 「輝秀」(労働大臣賞受賞後作)
しかし、共同商標 |
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マークは鍛たれ続け、石堂鉋製作所は現在 |
孤高で自立心が強く、自分の腕に絶対の自信を持った誇り高い東京の鉋鍛冶の人達が一つに纏まったということは歴史的に意味のあることですし、鉋鍛冶名人である三代目千代鶴の落合氏や十代目石堂の菊池氏の熱意と努力の賜物であったと言えましょう。 |
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