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(三) 近世の壁塗職の呼称



 中世を通じて、白堊(漆喰)上塗まで行われる本格的な壁塗工事は次第に増えていきましたが、庶民にとっては、まだまだ高根の花でした。室町時代になってもこれは変わらず、京都の中心街においてすら町屋の外壁に上塗はされていませんでした。

 ところが江戸時代初期になると、京都の町はほとんど白堊(漆喰)の家屋で埋め尽くされてしまいます。このような急激な壁塗工事の変化の原因はいったい何なのでしょうか。

 ここに近世城郭建築と町屋における草庵茶室建築の登場があります。

 1600年(慶長5年)を境として、ほとんどの城郭の外装が、耐火と耐弾の面から総塗籠式(外装ばかりでなく格子・軒裏まで白堊(漆喰)上塗をした本格的な壁塗工事で塗り込んでしまう方法)を採用したことによって、壁塗工事の量的な生産力の拡大が促進されました。

 また、草庵茶室建築は新しい種類の土壁の導入を促し、意匠面での変化が豊富になり、壁塗工事の質的発展を促進しました。

 やがて戦乱の時代が終わり、江戸時代になって急速に多くの建築に壁塗工事が普及することになります。

 その理由は、元禄時代に漆喰壁材に入れる糊の技術革新が起こったこと、つまり今までの高価な“米”を使った糊から安価な“海藻”を使った糊への転換があったこと、また大津壁に代表される糊材を使用しない有色壁の導入などが、庶民にとって費用面で本格的な壁塗工事を身近なものにしたからです。

 さらに、江戸幕府の都市防火対策と奢侈禁止令が、町屋に多くの土蔵建築を促すことになりました。土蔵は白堊(漆喰)塗籠式で、いわば小型の城郭ともいうべきものです。そして壁塗職の受け持つ比重の最も大きな建築物でした。この土蔵こそが、城郭建築の廃された後の需要を支えた最大の顧客で、まさに江戸壁塗職の華ともいう存在でした。

 このような展開の中で、壁塗職の呼称が変化しました。壁塗職を意味する「左官」という文字の出現です。慶長10年(1609年)の宇都宮大明神御建立勘定目録にはじめて出てきます。

 しかし元和3年(1617年)になっても、まだ中世の呼称である「壁塗」と呼んだ文献があり、呼称の混乱が続きました。

 「壁塗」・「左官」の使用の混乱に終止符が打たれるのは、寛永19年(1642年)京都御所の壁工事で表題・職名ともすべて「左官」に統一されてからです。



 これ以後現在まで、時代は変わっても、明治時代になってセメント利用により表層を担う技術が一気に多様化し、「左官」から「煉瓦職」や「タイル職」といった新しい職能分化がありましたが、壁塗職を「左官」と表現する言葉は変化せず、存在し続けています。




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