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(二) 「墨坪」の語源について



 明治時代まで「スミツボ」は、大工職の人達が自分で好きなように作って使われていました。江戸時代の幕末頃から、「スミツボ」の形態は、「墨斗」のような中国的形態から今日私たちが見るような丸い大きな墨池のある形態になって行きました。「スミツボ」の中国的形態から日本化された形態への移行です。

 やがて、明治時代の中頃に、「スミツボ」を製作する専業の人達が大工職の中から出現しました。この人達は、自分の名前の一字を製作した「スミツボ」の裏に「坪なになに」と彫りました。そのことによって「スミツボ」を「墨斗」から「墨坪」と漢字表記するように変わっていきました。この時期に、「スミツボ」形態の日本化が完成されたと言ってもいいのではないのでしょうか。明治中頃から大正時代にかけて、東京では「坪福」・「坪仙」・「坪清」など、新潟では「坪源」などと彫った墨坪職が現れました。
「坪源」 墨坪1
 では、なぜ「坪」の文字を使ったのでしょうか。「ツボ」という漢字には、「坪」と「壷」の二つの文字があります。本来ですと、「スミツボ」のツボの漢字は「壷」とするのが使用形態上から正しいようにも思えます。このことを、明治の中頃から墨壷作りをしている新潟で一番古い「坪源」にお聞きすると「深い意味はなく、創業者が“坪”の方が難しい漢字でないので使われた」とのことでした。
「坪源」 墨坪2
 国語辞典によると、「坪」の文字には、土地の大きさを表すと共に、「小さな庭」と言う意味も含まれています。池があり、水が流れて水車が回り、時には鯉が泳ぎ、鶴や亀などが池の周りで遊び、まさに「墨坪」そのものが「日本の庭空間」を表現しているように思えます。私見としては、「スミツボ」を「墨坪」と表記し、「壷」よりも空間世界が広がる「坪」の文字を、先人たちが使ったのは、まさに適切であったのではないかといま思っています。



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