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初代「永弘」の下で修業した星野三吉は、独立して初代「初弘」を名乗り、鉋を鍛ちました。初代「初弘」は、親方の初代「永弘」が鉋刃に洋鋼のバイト鋼を使って成功したのとは反対に、日本古来の玉鋼を鍛えて成功しました。そして、「初弘」の使っていた玉鋼を参考に日立の安来工場から白紙鋼が生まれる契機になったとも言われています。 |
初代「初弘」の三吉には、一番弟子に坂井鞆治(友治作坂光銘鉋を製造)や金井芳蔵(芳蔵銘鉋を製造)などがいました。坂井鞆治の息子に、坂光銘の小刀製造する坂井久二がいます。金井芳蔵は弟子が後を継ぎ、二代目金井芳雄となって芳蔵銘の鉋を鍛ちました。 |
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初代「初弘」の星野三吉は、子供がいなかったこともあって、親戚の甥の星野三作が5歳のときに養子になりました。やがて三作の兄の星野文作と星野巳弥治が小学校を卒業後、弟子入りしました。養子になった三作も鉋鍛冶の修業をしましたが、折り合いが悪くなって初代「初弘」の家から独立し、「初行」銘で鉋を鍛ち、一時何人もの職人を使って忙しく鉋鍛冶をしていました。 |

二代目「初弘」は、文作が継ぎました。巳弥治は、昭和22年中屋伊之助の弟子であった鋸鍛冶佐藤俵三郎家の婿になり、佐藤巳弥治として鉋を鍛ちました。銘は「初則」・「伝壽」・「俵三郎」を商標登録しました。「初行」銘の三作の夫人が、巳弥治夫人(佐藤家)の母の実家(鋸鍛冶丸山家)の出身という繋がりでした。昭和24年に巳弥治は三条市の「市制15周年記念大工道具品評会」で最高賞の市長賞を授章しました。 |
二代目「初弘」の文作が癌の病に冒されたとき、三代目を継いだ文作の子 文一郎はドロップ鍛造の仕事をし、鉋を造ったことがなかったので、鉋鍛冶として熟達した佐藤巳弥治が、請われて三代目文一郎の鉋造りの指導を行いました。現在は、四代目の文一郎の子
光宏が鉋鍛冶の名跡「初弘」を守って、手打ちの鉋を造り続けながら、新しい鉋製造にも挑戦しています。 |
尚、「初弘」銘の鉋は3種類に分かれ、普通品「初弘」に白紙鋼、高級品の三角印「初弘」に青紙鋼1号、最高級品の磨き「初弘」にスエーデン鋼が使われてきました。 |

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