スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク





(一) 「永弘」系について



 永桶米太郎は、明治15年頃に与板から来住した鑿鍛冶の河内庄次に、少年のころ弟子入りしました。鑿鍛冶としての修業をしっかりと積み上げて鑿製造技術を習得した米太郎は、やがて独立して初代「永弘」を名乗ります。そして鑿ばかりでなく、鉋の製造にも挑戦し、鉋も鍛つようになりました。当時、昼は鉋、夜は鑿を鍛っていたようです。

永弘鉋 1 初代「永弘」の下で一緒に仕事をしていた弟に、永桶菊次がいました。やがて鑿造りに上達したこの弟の菊次に鑿の製造を任せるようになり、独立する時に鑿部門をそっくり譲りました。独立した菊次は鑿鍛冶として「菊弘丸」と銘を名乗るようになりました。その後、永桶菊次家は、長男昭二が後を継いで二代目となり、次男啓三郎が鑿鍛冶として独立して「啓壽」銘を名乗り、三男金次郎が中屋伊之助に弟子入りして中屋深水銘の鋸鍛冶になりました。「菊弘丸」銘は、二代目永桶昭二の息子・和良が三代目として現在継いでいます。

永弘鉋 2

 初代「永弘」の弟子に、鉋鍛冶の修業をして後に初代「初弘」となる星野三吉や荻野信次などがいました。荻野信次の弟子には、奈良東大寺修復に使う槍鉋を奉納した国久光銘の坂口昭一(昭和9年生)がいます。

永弘鉋 3 初代「永弘」は、長男が早逝、次男が商売違いの方向へ進み、三男次助が小学校を卒業後に後継者として父の仕事の手伝いを始めました。16歳になったときに、父から「独立して鑿の製造をせよ」と言い渡されました。自分の経験から、鑿鍛冶として研鑽を積むことが、将来鉋鍛冶の仕事をするときに、必ず役立つと思っていたからでした。

 次助は10年間に渡り、鑿の材料・形状・火造り・仕上げ・切れ味などの研鑽に励みました。やがて鉋の製造を許された次助は、次ぎは半年間鉋の切れ味について研究に励んだ後、本格的に鉋製造を始めました。それを見届けて安堵したかのように、その翌年に初代「永弘」は亡くなりました。

永弘鉋 4 初代「永弘」の米太郎は、玉鋼以外に良い鋼がない時代に、大鉋を削るバイト用の洋鋼を鉋の刃に使ったり、鋼の処理をしながら炭素量をピタリと言い当てるほどの熟達した鉋鍛冶でした。また初代「永弘」の使っていた洋鋼の材料を参考にして、日立の安来工場から青紙鋼が生まれる契機になったとも言われています。

 初代「永弘」の鉋造りの伝統は、二代目次助からその息子の米太郎に三代目として引き継がれ、鉋の製造を継続していましたが、平成に入ってから鉋の製造が中止され、三条の金物問屋・外栄金物(株)が「永弘」銘を譲り受け、別の鉋鍛冶に鍛たせて造るようになりました。



←前のページへ   このページのトップ   次のページへ→

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved