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(三) 三代目 善作



2代目善作が、昭和5年前後に大工道具鍛冶をやめたので、弟である重次郎が3代目善作を継いだそうです。重次郎は明治24年(1891)生まれといいますので、このとき39歳の頃でした。3代目善作の重次郎は、兄にも劣らぬ名工で、関西の大工たちによって天才鍛冶と呼ばれていたそうです。


戦前に、3代目善作が大阪の市岡で大工道具鍛冶をしていたとき、富山県東栃波郡福野町の野村俊信が、堺の鋏鍛冶の紹介で弟子入りしたそうです。俊信18歳のときでした。俊信は平成24年時では96歳ということですから、逆算すると大正5年(1916)生まれで、3代目善作に弟子入りしたのは昭和9年(1934)です。


俊信は5年間修業したのち、帰郷して父の鍛冶仕事を手伝い、大工や建具職人が使う鑿などを鍛ちました。5年間の修業ということですので、昭和14年に修業を終えたことになります。


 3代目善作は、昭和18年、空襲が激化し、妻子を連れて大阪の市岡から奈良県奈良市都祁吐山町の田舎に疎開し、困窮の中で鍛冶仕事をしていたといいます。

戦後、大阪の大正橋近くの堀江に鍛冶場を作り、昭和26年頃まで鑿を鍛ち、その後生駒の瓢箪山に移り、昭和27年頃には奈良の榛原の山中で鍛冶仕事をしていたそうです。昭和28年以降、その行方が解らなくなりました。


ここで、大きな謎が生じます。3代目善作の重次郎は明治24年(1891)生まれですので、奈良に疎開した昭和18年(1943)当時では52歳です。3代目善作に納屋を貸していた農家の人は、このとき3代目善作は30歳後半であったと言っています。この年齢の差の明らかな違いは何なのでしょうか。若く見られたのか、それとも誰か別人がいて見誤ったのか、新たな謎が残ります。






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