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(二) 近世の前挽鋸産地と前挽鋸鍛冶職人について


 この前挽鋸は、16世紀後半である安土桃山時代の末期の慶長元年(1596)〜慶長3年(1598)頃に誕生したようです(星野欣也・植村昌子論文「近世・近代における前挽鋸の変遷について」)。

 当時、日本の鋸生産の先進地であった大阪か、または京都ではないかと思われていますが、正確なところは不明です。私の仮説として、京都の木挽き職が多くいた地区に前挽鋸を製造した鋸鍛冶が集中していたことから、当時鋸生産の先進地であり、一大生産地であった京都伏見の鋸鍛冶あたりが考案したのではないか思っています。



T 京都における前挽鋸製造と前挽鋸鍛冶職人

 江戸時代に入ると、この前挽鋸は全国に普及していきました。5代将軍徳川綱吉時代の元禄時代(1688〜1704)に京都で前挽鋸を製造していた鍛冶職人として、天王寺屋三右衛門(堀川三条)、雁金屋平右衛門(堀川二条)、雁金屋長右衛門(堀川御池)、雁金屋市兵衛(堀川御池)、雁金屋七郎左衛門(麩屋町四条)、雁金屋甚右衛門(二条新地)の6人の名前が、伊藤誠之甲賀市史編纂室員の講演資料「甲賀前挽鋸の誕生―発見された前挽鋸鍛冶の古文書から―」の中にあります。

 三右衛門・平右衛門・長右衛門の3人は雁金屋次郎右衛門(京都の丸太町小川)のもとで修業をし、市兵衛・七郎左衛門・甚右衛門の3人は雁金屋三郎右衛門(堀川三条)の下で修業していました。この記録より、京都には8人の前挽鋸鍛冶がいたことがわかります。

雁金屋の屋号は京都鍛冶の屋号ですが、この人たちの中に天王寺屋の屋号を名乗る人がいますが、この屋号は大阪四天王寺鍛冶出身の鍛冶師たちが使いましたので、その系統の鋸鍛冶かも知れません。


 その後、かれらが8代将軍徳川吉宗時代に幕府が公認し、独占権を所有した株仲間である京都前挽鋸鍛冶職人仲間を結成したのではないかと推察します。

 その後、11代将軍徳川家斉時代の文政6年(1823)の京都の前挽鋸鍛冶職人として、雁金屋次郎右衛門(丸太町西洞院)、雁金屋七郎右衛門(丸太町油小路)、雁金屋平右衛門(堀川二条)、天王寺屋三右衛門(堀川三条)、中屋庄左衛門(小川竹屋町)の5人の名前が、当時京都から前挽鋸を仕入れていた紀州和歌山の前挽鋸売捌所の史料に記載されていることから(伊藤誠之講演資料)、彼らが京都前挽鋸鍛冶職人仲間のメンバーであったことが理解できます。

 この資料では、元禄時代の京都前挽鋸鍛冶職人であった雁金屋三郎右衛門、雁金屋七郎左衛門、雁金屋長右衛門、雁金屋市兵衛、雁金屋甚右衛門の5人が消え、新たに雁金屋七郎右衛門と中屋庄左衛門の2名が加わり、5人となっています。


 上記の文政6年の京都前挽鋸鍛冶職人仲間のメンバーは、京都在住の鋸鍛冶職人の外に、近江甲賀の天王寺屋九左衛門、大阪の大和屋平左衛門、播州三木の前挽屋五郎左衛門と山田屋伊右衛門と大阪屋権右衛門の5人が記載されています。当時は、彼ら10人によって京都前挽鋸鍛冶職人仲間が結成されていたことがわかります。


 10年後の天保4年(1833)の「商人買物獨案内」にも、京都住の前挽鋸鍛冶職人として、文政6年のメンバーである次郎右衛門・七郎右衛門・平右衛門・庄左衛門・三右衛門5人の名前が載せられています(星野・植村の前掲論文)。

11代将軍徳川家斉時代の(1804〜1818)文化年間になると、三木町前挽鋸鍛冶職人仲間が京都前挽鋸の模倣品を製造したり、三木の前挽鋸が江戸や名古屋方面に盛んに出荷されるようになり、京都製造の前挽鋸は次第に押されて衰退の一途を辿り、12代将軍徳川家慶時代の天保10年(1839)頃、京都前挽鋸鍛冶職人仲間の中で、雁金屋七郎左衛門と雁金屋平右衛門の株が近江甲賀へ、雁金屋次郎右衛門の株(注1)が丹州と言われた丹後へ譲渡されました(桑田優著の前掲書)。丹後は林業が盛んで、京都に木材を供給する製材の産地でした。


(注)1 前掲の伊藤講演資料によると、雁金屋次郎右衛門の株は京都の寺町通仏光寺の玉屋左兵衛が譲り受けたとありますが、この相違は何であるかはわかりません。

 天保12年(1841)に株仲間解散令が発せられ、このことによって各地で鋸鍛冶たちが前挽鋸を製造し始め、16年後の安政4年(1857)に株仲間の再興令が出されましたが、すでに京都前挽鋸鍛冶職人仲間以外の前挽鋸が流通していて、株仲間の統制が効かないような状況になりつつありました。


このようなことで、江戸時代の幕末にかけて京都における前挽鋸製造は衰退し、それに代わり近江甲賀や播州三木が、前挽鋸の製造の日本の中心地になり、これらの地域の特産品になっていきました。




U 近江甲賀における前挽鋸製造と前挽鋸鍛冶職人

 江戸時代中期以降に、近江甲賀で前挽鋸製造が始まるのですが、これについては前掲の伊藤誠之講演資料やインターネットで紹介されています「滋賀県有形民俗文化財の部」、「甲賀の前挽鋸/甲賀市」、「甲賀の杣と埋もれ木/甲賀」などを参考にして、近江甲賀における前挽鋸の製造について述べてみましょう。


 京都の前挽鋸鍛冶の天王寺屋三右衛門の下で修業したにも関わらず、株仲間制度により京都で前挽鋸製造が叶わなかった天王寺屋九右衛門が、9代将軍徳川家重時代の宝暦元年(1751)に故郷の甲賀に戻り、前挽鋸を製造したことから甲賀における前挽鋸製造が始まったと言います。九右衛門(68歳で没)が44歳のときでした。

 九右衛門の故郷であった甲賀地方は、古(いにしえ)より都であった奈良や京都などに木材を供給していて、江戸時代のこの時期も、材木の供給地として製材に従事する多くの木挽き職が存在し、かれらが前挽鋸を使っていました。

 ただし、9代将軍徳川家重時代の末期から10代将軍徳川家治時代の初期、宝暦9(1759)〜明和元年(1764)の期間は、製造が行われていません。これは、前挽鋸の製造や商取引の独占権をもつ京都前挽鋸鍛冶職人仲間が製造差し止めをしていたからでしょう。明和元年の末には、九右衛門の福本家が、正式に前挽鋸製造の株仲間である京都前挽鋸鍛冶職人仲間に加入でき、はれて前挽鋸の製造が行われるようになりました。

10代将軍徳川家治時代の安永2年(1773)以降は、九右衛門の後継者と思える天王寺屋九左衛門の名が確認でき、製造した前挽鋸が「天九」の銘で流通しました。京都前挽鋸鍛冶職人仲間の規定は厳しく、
@ 京流前挽鋸の寸法である長さ1尺8寸(約54.5p)
  幅1尺2寸(約36.4p)を守る事、
A 製品に銘を刻む事、
B 毎年銀5枚を上納する事、
C 弟子や職人や親類に前挽鋸鍛冶職をさせない事、
D 違反したときは道具一式と株を没収する事 
が書かれています


12代将軍徳川家慶時代の天保10年(1839)に京都の雁金屋平右衛門の株が甲賀郡水口の塩屋清兵衛に渡り(伊藤講演資料)、その後に雁金屋七郎右衛門の株(注2)が甲賀郡北杣村三本柳の中西七郎左衛門に渡りました(星野・植村前掲論文)。江戸時代後期に雁金屋七郎右衛門の製造した前挽鋸は、一流品として知られていました。


(注)2 伊藤講演資料では、12代将軍徳川家慶時代の嘉永2年(1849)頃に雁金屋七郎左衛門の株が甲賀郡三大寺村に移動とありますが、推察するに雁金屋七郎左衛門は雁金屋七郎右衛門の後継者かと思われます。

この2株により、甲賀郡の前挽鋸鍛冶職人株は、いままで製造していた三大寺村三本柳の天王寺屋九左衛門を加えて、播州三木と同様に3株になりました。そのことにより、幕末から明治時代にかけて近江甲賀産の前挽鋸が多く出回り、甲賀の特産品になって行きました。


その後、雁金屋七郎右衛門の株を譲り受けた中西家は、明治33年に甲賀郡前挽鋸製造業組合の組合長を務めるようになります。



V 播州三木における前挽鋸製造と前挽鋸鍛冶職人

 三木の金物仲買問屋に残された古文書を調査して上梓した桑田優著「伝統産業の成立と発展―播州三木金物の事例―」によると、播州三木では、10代将軍徳川家治時代の宝暦11年(1761)2月と9月に山田屋伊右衛門が三木役所に前挽鋸鍛冶職人の開業を願い出て、遅くとも3年後の宝暦14年(1764)までには、前挽鋸の製造が三木で始まっていたと指摘されます。

この願い出が認められ、山田屋伊右衛門、前挽屋五郎衛門(当初の屋号は大阪屋でした)、大阪屋権右衛門の三軒の前挽鋸鍛冶職人が開業し、前挽鋸の製造を始めました。開業の際には京都前挽鋸鍛冶職人仲間に加入し、三木町での前挽鋸鍛冶職人仲間を結成して山田屋伊右衛門が惣代となり、京都前挽鋸鍛冶職人仲間と連絡を取り合いました。


いままで封鎖的であった株仲間に加入できるようになったのは、先に近世のおける株仲間制度のところで指摘しましたように、宝暦から天明期に幕府が各種株仲間を再編成して流通機構を強化し、幕府への冥加金の上納増加を図るという政策もあったからでした。


このような事情で、三木から鋸鍛冶たちや包丁鍛冶たちも、10代将軍徳川家治時代の天明4年(1784)頃に、利器鍛冶の株仲間である大阪の文殊四郎鍛冶職人仲間に加入しています。


いままで三木の前挽鋸は大阪の問屋を通して江戸に送られていましたが、11代将軍徳川家斉時代の寛政10年(1798)には、江戸の問屋と直接取引をするようになりました。


11代将軍徳川家斉時代の文政・天保年間、材料の鉄や炭の値上がりなどで不況となり、三木前挽鋸誕生期から続いていた大阪屋権右衛門が問屋に対する借金返済問題から、文政13年(1830)に息子の利右衛門へ、また天保7年(1836)にはその息子の常蔵に家督を譲っていましたが、とうとう借金の返済ができないために、天保10年(1827)三木の山田屋弥次右衛門に株の権利が渡りました。


三木の前挽鋸鍛冶職人たちは、だれも資金的には楽ではありませんでしたが、製品の特殊性から市場価値があったので、その後三木の問屋や近郷の資産家に支えられて、明治以後も存続しました。


 近世のおける三木での前挽鋸の生産量はどのくらいだったのかというと、これについては、桑田優著の前掲書の中に11代将軍徳川家斉時代の最晩年、天保6年(1835)に三木の鍛冶職人と三木の代表的な一軒の金物仲買問屋との取引史料から、その内容を知ることができます。しかし、桑田優教授の指摘するように、一軒の問屋の資料から当時の三木金物産業全体を推測するのは無理ですが、概略的な状態を述べるには問題ないかと思います。


 この問屋が取引していた鍛冶職人軒数は215軒で総仕入額が約1,693両(1両を江戸後期の価値である銀150匁で筆者が計算する)、前挽鋸鍛冶職人が3人で仕入額が約223両、鋸鍛冶が64軒で仕入額が約686両、鑿鍛冶が7軒で仕入額が約40両、?(かんな)鍛冶が13軒で仕入額が約38両となります。ついでに、剃刀鍛冶職人が26軒で仕入額が約126両です。曲尺目切職人が8人で仕入額が約16両、曲尺地職人が8人で仕入額が約19両です。この金物問屋の鍛冶職人からの仕入額は、当時のそれぞれの鍛冶職人の生産額の一部です。


 この問屋の資料では、前挽鋸鍛冶(13.2%)と鋸鍛冶(40.5%)と包丁鍛冶(15%)からの仕入額が、この問屋の全体の約70%を占め、売上額では前挽鋸(21.4%)と包丁(24.8%)と鋸(30.8%)が全体の売上額の約80%を占めています。このことからこれらの商品が当時の三木の主要商品であったことを、おおよそ推察できます。





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