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東京鑿の歴史はたいへん古く、多くの鑿鍛冶名人や達人たちを輩出し、鑿は東京が一番であると定評が日本の大工道具業界にかつて広まっていました。戦前には東京に35軒以上の鑿鍛冶がいましたが、時代の急激な変化によって、今では東京の鑿鍛冶は、江戸の刃物鍛冶最後の灯りを守り続けている月島の左久作(二代目池上喬庸氏/大正13年生まれ・三代目池上喜幸氏/昭和30年生まれ)と西小松川の宝龍斎長弘(田中一郎氏/大正13年生まれ)の二軒になり、今日に至っています。 |
かつて戦前の東京には、鑿鍛冶業界の発展・向上と親睦のために昭和10年から14年頃に結成された鑿鍛冶の組合があり、「東京鑿 |
同業組合」と呼ばれて |
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マークの刻印を共同で使用し活動していまし |
た。組合員は35軒余りいました。柏木左久弘氏などが組合長をしていましたが、太平洋戦争が激化するに従い、活動は自然に停止されました。この戦前の鑿鍛冶組合については、残念ながら資料が戦禍で消失し、今では分からなくなってしまいました。 |

戦争が終了し、一面の焼け野原になった東京に復興の槌音が響き始めた昭和22年頃に、再び鑿鍛冶の組合を結成しようとの機運が起こり、初代左久作(池上喜作氏:明治32年うまれ/昭和24年左久弘銘を襲名)が中心となって鑿鍛冶のところに呼びかけをし、「東京鑿共同組合」として再結成されました。戦争で17軒余りの鑿鍛冶が消滅し、参加した鑿鍛冶は18軒でした。この18軒の名前は現在名簿が行方不明で分かりません。戦後の初代組合長は初代左久作、後の左久弘である池上喜作氏が就任しました。 |
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