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(四) 九代目 石堂秀一と三人の弟子たち



 八代目石堂の長男の眞勇美こと九代目石堂秀一は、千代鶴是秀と同じ明治7年生まれで、僅か50日の年上でした。10歳のとき母を亡くし、千代鶴是秀が石堂家に入門すると共に一緒に七代目、八代目石堂のもとで厳しい修業に勤め、お互いに良きライバルとして一人前の鍛冶職になるために切磋琢磨していきました。しかし18歳のとき、明治24年の後半、父の八代目、伯父の七代目を相次いで亡くし、若くして九代目石堂秀一を名のり、石堂家を背負うことになったのです。やがて、九代目石堂秀一と千代鶴是秀は大工道具鍛冶を代表する双壁になっていきました。

 明治42年、菊池清一(のちの十代目石堂輝秀)が13歳で九代目石堂秀一に弟子入りしました。このとき九代目石堂は37歳でした。すでに二人の弟子がいました。一人は清一より3歳上で、九代目石堂の妻・ラクと同郷で従弟の杉山武勇でした。鍛冶職としても優れ、新橋新富町に独立して秀行銘を名のりましたが、大正10年26歳で病死しました。もう一人は清一より3歳年下であり、杉山武勇の弟の秀作で、子がなかった九代目石堂の養嗣子になっていました。この秀作は大正12年に失恋の痛手から毒物を飲んで自害しました。

 九代目石堂が仕事をしたのは大正13年までで、大正14年9月の秀作三回忌前後から細工場に降りることは決してありませんでした。その後の九代目石堂作と伝えられている作品はすべて清一の代作でした。石堂家は清一が一人で背負っていたのです。
昭和4年に清一は独立して輝秀銘で鉋を鍛ちましたが、2年余り石堂を名のることはありませんでした。以前から病に倒れていた九代目石堂は、昭和4年に目黒区宿山の千代鶴家に世話になり、昭和6年57歳でこの世を去りました。

 そして昭和30年、千代鶴是秀の妻・信は、途絶えた石堂家を再興するために協議離婚をして石堂 信に戻り、輝秀の昭和7年生まれの次男である秀雄(十一代目石堂)を養子に迎えて石堂の籍を復活すると、すぐにまた千代鶴是秀と婚姻しました。

 十代目石堂輝秀は昭和の名工として労働大臣賞を受賞した後、ほどなくして昭和57年85歳で生涯を終えました。石堂家は現在十一代目秀雄、十二代目良孝が守っています。

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