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(一) 江戸時代



 江戸時代になると、室町時代の初期の頃から刀剣の研磨・鑑定などを家業として鳴滝砥を使っていた本阿弥家が、2代将軍徳川秀忠時代の慶長12年(1607)頃、幕府から鳴滝・中野・高雄・栂尾・梅ケ畑内の5か所の採掘権が与えられ、明治時代になるまで砥石山を管理するようになりました。

幕府に上納した以外の残りの砥石は、一般に売ってもよいことから、最初は刀剣専用だった砥石が、剃刀・鉋・鑿などの研ぎにも使われるようになっていきました。


また、江戸時代には砥石の産地などを紹介した文献が数多く出版されますが、ここでは、「毛吹草」と「日本山海名産図会」を取り上げてみましょう。


3代将軍徳川家光時代になると、産地の名の付いた砥石を紹介した書物が出版されました。それは「毛吹草」(1638)で、諸国の名産物のところに、いろいろ砥石の紹介があり、当時の主な砥石産地を知ることができます。それらは、以下の通りです。


上野国の戸沢砥(砥沢砥ともいう)・三河国の名倉砥・越前国の常慶寺砥・近江国の砥石山砥 ・山城国の高雄砥・山城国の瓶原砥・丹波国の佐伯砥・但馬国の諸磯砥・紀州国の神子浜砥 ・肥後国の天草砥・対馬国の青砥です。


それから160年ばかり経った11代将軍徳川家斉時代の中頃、寛政11年(1799)に出版された「日本山海名産図会」に、この頃の砥石産地の紹介があります。以下の通りです。


京都嵯峨近辺の鳴滝と高雄の合砥、原山や丹波白谷の内曇り砥や浅黄砥で、これらは刀剣・剃刀用ばかりでなく、大工や他の木工職人たちも使っているという。その他に、上野の戸沢砥、三河の白名倉砥、越前の常慶寺砥で、これらは仕上砥である。


 青砥は、京都の平尾・杣田・南村・門前・中村・井出黒・湯船などや、丹波の猪倉・佐伯・芦野山・扇谷・長谷・大渕・岩谷・宮川で採れる。中砥として、肥前(佐賀県・長崎県)の天草砥、伊予の伊予砥、対馬の虫喰砥がある。

荒砥は、肥前の唐津紋口、紀伊の茅ガ中(これは産地名ではなく、とくに荒目の砥石)や神子浜、伊予のものである。


さらに、大工・箱細工・指物師などは、中砥である門前産・平尾産・杣田産の青砥で中研ぎをして、鳴滝産・高雄産の合砥などで仕上げると、この図会の中に書かれています。


この記述は、当時の大工職が使っていた砥石を知るのに貴重な資料です。江戸時代の人口は中期以降、3000万人台に一定していました。





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