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(二) 天然砥石の歴史



T 古代

 日本では縄文時代の遺跡から、砥石として研磨に使ったと思われる石が発見されていますが、これらは石斧や石包丁などの研磨に使われていたと思われます。

弥生時代の後半頃(1〜3世紀)からは、朝鮮半島から鉄器や製鉄法が伝来し、ごく小規模な鉄生産も行われました。槍・刀剣・鏃(やじり)などの武器、鋤・鍬・鎌・鉈(なた)・包丁など刃物や鉞(まさかり)・手斧・鑿などの建築刃物道具も作られたことでしょう。この時代の横枕遺跡(福岡県志免町)から、中砥である携帯用の青砥が出土しています。


古墳時代の遺跡からも、刀剣などの武器をはじめ、建築刃物道具も数多く出土していますので、当然それら刃物を研磨する砥石が存在していました。


 古代である日本の人口は、縄文早期が約2万人、その後の縄文時代は約10万〜20万人、弥生時代は約60万人でしたので、砥石の使用量を知ることができます。



U 奈良時代

 奈良時代になると、砥石のことを記した古い文献が現れます。それは「正倉院文書」の中にあります。

 その文書の中で、砥石について記された最も古いものとして、「経師等浄衣並雑物充帳」の天平18年正月30日の箇所に、「砥一面通用充了、即充体秦小広」とあります。天平18年(746)は、奈良時代の中頃です。ここに記された砥石は、「砥」と記されていますので、「礪」という粗い砥石ではなく、細目の仕上げ中砥のことでしょう。この平城京の時代は、都の東にある春日山で良質の白砥が採掘されていました。

 天平宝字4年(760)の文書には、観音菩薩像造立の材料として伊予砥三顆を課したとあります。伊予砥とは、四国の伊予国砥部から採掘された砥石です。歴史上、砥石として初めて産地の名が付けられて砥石です。この砥石が都から遠い四国から運ばれて、使用されていたことは、砥石の貴重さの大きさが解ります。この砥は、砥粒の細かさから仕上げ中砥の分類に入ります。 

「東大寺鋳鏡用度注文」の天平宝字6年4月2日の箇所に、「砥二 青砥二村」とあります。天平宝字6年(763)は、奈良時代の後半です。青砥について「正倉院文書」に初めて出て来ますが、当時、荒砥を産出した奈良市北部の佐保山に近接した和束山(京都府相楽郡和束町)からも青砥を採掘していましたので、そこのものか、または他の産地から運ばれたものでしょう。


さらに、「造東寺司泰写経用度解」には、「砥弐顆一果請 宝亀6年2月9日 用損木工等雑刃器磨料」とあります。宝亀6年(776)は、奈良時代の終盤ですが、木工用の刃物道具の研ぎに、砥が使われたことが書かれています。


次の時代に京都で採掘されるようになる上質な超微細な仕上砥石については、なにも記していないので、まだ採掘されていなかったと思われます。この時代の日本の人口は、約200万〜250万人でした。



V 平安時代

 平安時代の文書に「延喜式(えんぎしき)」があります。これは平安時代の中期に編纂された律令の補助法令です。ここに、砥石の記述があります。


延喜式の巻四から巻四十九までに、砥・青砥・伊予砥の文字が頻繁に出て来ます。巻四十九には麁(あらと)の文字もあります。これは荒砥を意味しています。


 この時代になると、平安京の北の愛宕山で良質の仕上砥が採掘され出したといいます。青砥は、当時各地で採掘されていたと思いますが、「延喜式」の中では大宰府(九州・福岡県)だけが、青砥の産地として記されています。

 伊予砥は、奈良時代のところで書きましたように、伊予の国(四国・愛媛県)の特産物です。「延喜式」では産地の名前が付けられている唯一の砥石で、名が付けられた最古の砥石です。この地では荒砥から細目の仕上げ中砥まで産出しました。仕上げ中砥に伊予砥の名が付けられました。

麁(あらと)と書かれた荒砥については、当時各地で採掘されていたと思いますが、とくにこの時代の荒砥産地の記述はありません。約400年に渡る平安時代の人口は、約250万人から400万人でした。



W 鎌倉時代

 鎌倉時代初期になると、京都である山城国愛宕山の東裾野の梅ケ畑菖蒲谷で、上質な仕上砥石という合砥が発掘されます。地元の郷士であった本間藤左衛門時成が、梅ケ畑菖蒲谷の山中で採石した仕上砥石を後鳥羽上皇に献上し、建久元年(1190)上京していた源頼朝より「日本礪石師棟梁(にほんれいせきしとうりょう)」に任じられ、地元の菖蒲谷での採石の総元締めになりました。

この谷で採石される合砥は東物とよばれ、鳴滝向田・中山・奥殿・大突・菖蒲の砥石山があり、本間一族が採掘する合砥と言う意味で本山砥石と言いました。(現在では、京都で採石される合砥をすべて本山砥石といいます。)


その後、愛宕山の北の大平・水木原・馬路山・新田・奥の門・八筒の砥石山でも採掘され、これらは丹波物の中でも馬路物とよばれ、東物とともに名門砥石と評価されました。


京都の合砥は、すべて天皇家と幕府の御用達品となり、刀剣やその他の刃物に使われて、一般には出回りませんでした。鎌倉時代の人口は、約500万人でした。



X 室町時代

 この時代の初め頃に、三河の国で仕上砥や中砥の名倉砥が採石され、とくに三河白名倉と呼ばれた仕上砥石は、刀剣などの研ぎに使われ出しました。

京都の合砥は、室町時代後期になると、形の悪いものや傷や亀裂のある難ものが、御用砥残品として出回るようになりました。この難ものは、使いづらさはありますが、上質の合砥なので、切れ味は優れ、建築や工芸などの刃物道具の分野に大きな影響を与えることになりました。


また、同時代の後半になると、群馬県南牧村の砥沢で仕上げ中砥が採掘され、砥沢砥(戸沢砥)とか、のちに沼田砥とか名付けられましたが、全国有数の砥石産地となり、江戸時代には幕府指定の御用砥石産地として発展していきます。戦国時代に入ると、肥後(熊本県)で中砥である天草砥が採掘され出しました。


京都の亀山から有名な中砥である丹波青砥が、この室町時代の後半に採石され出したようでもあります。しかし、17世紀初めの慶長年間(江戸時代の初め頃)に採掘が始まったとの説もありますので、定かではありません。


 室町時代から安土桃山時代の人口は、江戸時代前期の人口が約1500万から約1500万人と言われていますので、それから推察することができます。




(第1部はここで終了と致します。第2部は後日「道具の歴史」欄に掲載致します)


   平成26年1月吉日
   有限会社 スズキ金物店
     代表取締役 鈴木 俊昭


(参考)
一、田中清人氏ギター工房ホームページ・ブログ 「天然砥石について」・「梅ケ畑村誌」
一、藤寅工業(株)ホームページ・ブログ 「天然砥石の魅力」・「砥石入門」
一、Yahooの天然砥石のブログ 「砥石の今昔」
一、さざれ銘砥(株)ホームページ・ブログ 「京都産天然砥石産地地図」
一、明鏡止水ブログ 「天然砥石とは」
一、フリー百科事典ウィキペディア「砥石」など
一、佐藤興平論文「砥沢の砥石:地質と歴史」群馬県立自然博物館研究報告2005年
一、天然砥石採掘販売業者の砥取屋、木村研磨砥石工業所、石原砥石工業社、
   日本金砥石工業所などのホームページ・ブログ
一、木のメモ帳ブログ 「絶滅の道を歩む天然砥石たち」
一、京都稲荷山 刃物フルタ ホームページ・ブログ 「天然砥石の歴史について」
一、香川量平「大工道具に生きる その34 砥石の話」
一、レファレンス協同データベース「京都の名産である鳴滝砥石と本阿弥家との関わり」
一、東京木材問屋協同組合ホームページ・ブログ「日本刀 其の27入門外伝・研ぎの3」
一、岩崎重義論文「刃物」日本金属学会誌「まていあ」199 5年4月号
一、はさみ屋のブログ 「続 砥石について」
一、Yahoo知恵袋「縄文、平安、鎌倉、戦国、江戸、明治の各時代の日本の人口」








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