千代鶴是秀は、明治35、6年(28、9歳)頃に、見事な2尺5寸の備前伝の太刀を鍛え、長運斎千代鶴是秀銘で刀剣鑑定会に出品しました。しかし、鑑定員に古い作品を新作として銘を切り持ち込んだのではないかと誤解され、それ以後、千代鶴は太刀を一度も作刀していないことが知られています。
ところが、この切り抜き紙面に、湧井精一・蔵の千代鶴が鍛った明治24年2月造の大小刀が紹介されています。千代鶴18歳のときに作品です。これは、千代鶴の最も古い作品と紹介されています。
明治24年2月造とあることから、8代目石堂は明治24年10月没、7代目石堂は翌月の11月没ですので、修業中の千代鶴は存命のこの二人から小刀を作る教えを受けていたと言えましょう。
太刀を鍛つことは容易なことではありません。それなりの年季修業が必要です。刀剣鑑定会に出品して誤解されるほどの技量を、千代鶴は持っていたことから、私は以前より、いつ頃、誰から、太刀を鍛つ教えを受けていたのか、強い関心を持っていました。
しかし、この切り抜き紙面を読み返してみると、湧井精一・談では、「刀鍛冶としての千代鶴には二人の師匠があった。一人は7代目石堂の一番の高弟であった水戸勝村ともう一人は7代目石堂の娘の子である会津の元興という人がそれである。…………千代鶴は刀を打ってはこの二人に見せ、いろいろと教えを乞うていたということだ。」と語っています。
私は、忘れていたこの記事を読んで、もし本当ならば大変な資料だ、と驚きました。そして、二人の刀工について調べてみました。それが、以下の通りです。
水戸勝村とは、幕末水戸藩の刀工勝村徳勝のことです。江戸小石川にある水戸藩邸に住んでいましたが、明治5年に64歳で亡くなっています。また会津の元興は、湧井精一・談によると、7代目石堂の娘の子で、会津藩の刀工でした。戊辰戦争後、東京に出て来て、芝で鞘師になったといいます。元興は、明治24年に80歳(もしくは74歳)で亡くなっています。
尚、8代目石堂は明治24年10月に、7代目石堂は一か月後の11月に亡くなり、千代鶴は明治25年に19歳で自立します。
これらのことから、千代鶴から湧井精一が聞いたと言う話は、年代の上でどうも違いがあります。水戸勝村と会津元興の刀剣を参考にして、作刀したと言うならば納得できるのですが、二人に見せて教えを乞うたというならば、なにかの間違いでしょう。
しかし、上記の石堂輝秀のところで紹介しましたように、輝秀の父と千代鶴とは刀剣のことで親しかったとあります。もしかしたら、輝秀の父周辺の刀剣に関係した人たちから、千代鶴が作刀の教えを受けたと推察できる可能性があります。さらに、この件については調査が必要です。
しかし、40代、50代の千代鶴写真姿は、小柄ながら鍛冶職として鍛えた体躯、その表情からは、道具鍛冶として自らに課した厳しさが強く滲み出ているように窺がえます。この頃の千代鶴を、湧井精一・談で「古武士的な風格を持った人」で、「ハカマをはいて品物を持っていくので、相手はおどろいたもので」と語っています。当時、ハカマをはくことは正装で、タキシードを着て品物を持って行くようなものと思ったらいいでしょう。
また、互かう夫人は、「千代鶴さんは口かずが少ない方で、ときどきぽつりぽつりと話をしていた。」そうで、「いつも唐山の縞の着物に角帯をきちんとしめ、黒の羽織を着てきちんとしていられ、とても鍛冶屋さんとは思えない方でした。目は鋭く、どことなしに威厳のそなわった、人格者の方でした。」とも話しています。
これらの様子から、千代鶴の壮・中年期は、常に自分に課した名門刀工の血筋を受け継ぐ矜持を強く持ち、厳しく自分を律していた姿を想像することができます。
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