昭和48年から2期三条鋸組合長を務めた名工の佐藤長一郎は、三条,否日本の鋸鍛冶の人たちとは違って、鋸を作る以前の人生に対する哲学を持った教養人でした。自らの道楽は読書と言うほどで、自宅の書斎には哲学・歴史・文学・絵画の書籍が壁いっぱいに並んでいました。
昭和16年召集で中支に従軍し、終戦で三条に復員して鋸鍛冶を再開しましたが、多くの他の鋸鍛冶のように無印で品質を下げて2流品を作ることは、鋸鍛冶としての誇りが許さず、たとえ売れなくとも戦前と同様に高品質の鋸を作り続けました。
このようなことをしたのは、鋸業界では始めてのことでした。こうすることは商品の価値を高めることにもなりますが、長一郎にとっては自分の鍛った鋸を大切に思ったからでした。
この名工佐藤長一郎は、大正元年10月佐藤長松の長男として三条に生まれました。大正15年高等小学校を卒業し、佐藤真治に弟子入りし、鋸鍛冶の修業が始まりました。昭和5年7月、親方の病死により、3代目高橋伊三郎の下で修業しました。更に、昭和6年には吉田喜三郎の門下になって研鑚を積み、昭和9年12月独立開業しました。
佐藤長一郎は、「いつも同じでは停滞する。」と言う言葉を心の中に置き、常に前を向いて人生を歩んできました。また、「1代で終わることには未練がない。」とか、「将来への需要の裏付けの不安の中で、未来大きい若者に鋸を継がせる必要はない。」と警鐘を込めた勇気ある発言もしていました。その佐藤長一郎が鬼籍に入られてから、もうかなりの歳月が過ぎました。
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