文化史の上で、奈良時代を天平時代(710年元明天皇の平城京遷都から794年垣武天皇の平安京遷都)と呼びますが、この時代は朝廷によって仏教の保護がなされた時代で、寺院や優れた仏像が多く造られ、仏像製作が一つのピークを迎えました。
この時代の仏像は、雑部密教などの流入により仏像の種類が増え、従来の金銅造・木彫造に加え、塑像や乾漆像が多く製作されました。代表作として興福寺八部衆(木心乾漆像)・東大寺日光月光菩薩像(塑像)・東大寺執金剛神像(塑像)・東大寺戒壇院四天王像(塑像)・唐招提寺鑑真像(脱活乾漆像)などが造られました。(※1参照)
この時代になると、炭焼き窯・鍛冶場・鋳物場などが配置された官営のタタラ製鉄場が作られ、製鉄から鍛冶に至る一貫作業が行われました。鉄の国家管理化です。それだけ鉄や鋼は、当時の政権にとって貴重なものだったのです。
彼によると、「私の考えでは、丸鑿の使い始めは、乾漆像製作の際から起ったのではないかと考える。乾漆の際、ヘラでやると谷が丸くなるので、平鑿のような仕事は出来ないが、それが乾漆像に非常に柔らかい感じを出し得た。それで、木彫の場合にもその柔らかい感じを出そうとして使い出したものだろうと推測するのである。丸鑿は天平になると使い出し、唐招提寺の諸像あたりから本当に使い始めたように思う。」と個人的見解を述べています。これも、この時代の鑿を考察する上で、彫刻家から見た貴重な指摘といえましょう。
さらに、鑿の柄頭に鉄製の輪であるカツラを嵌めた叩き用の鑿の出現です。カツラを嵌めると、強く槌で叩いたときでも、柄の割れを防ぎます。鑿叩きに使われたのは木槌で、鑿叩きに鉄槌(いわゆる玄能)が使われ始めるのは江戸時代後半からです。それまで鉄槌は、主に石工や鍛治職に使われていました。
ここでいう栗原式鑿とは、東京都板橋区の栗原住居址(平安時代の9世紀末頃)から出土した鑿の形態です。この鑿は、刃部は片刃で薄く、柄頭まで頑丈な鉄部が刃の幅と同じ幅で貫通し、柄頭に鉄の輪であるカツラが付けられた叩き用の鑿です。出土した鑿の大きさは、長さ17p・刃部の幅は1pです。
いままで叩き用の鑿として使われて来た袋式鑿は、強く叩いて木に打ち込むことは無理なうえ、袋部が使用しているうちに開いてしまう欠点がありました。また、袋部が膨れているため、正確に削る鑿としては問題があります。
しかし、強い打撃に耐えるように、この鑿は刃の幅で柄頭まで頑丈な茎(なかご/コミともいう)を入れてあるので、当時貴重であった材料の鉄を余計に使い、重くなるという欠点もありました。
日本の鑿の歴史研究について第一人者である吉川金次は、当時後進地である東京板橋で出土していることから、「栗原式鑿のような構造の鑿は、すでに7〜8世紀には先進地帯では存在していて、使用されていたのではないかと思う」と指摘します。先進地帯とは当時の都の奈良などをいいます。
木彫の仏像を彫る際に、まず最初におよその形を整える荒彫り用の叩き鑿を、その後の仕上げ前の細工に小型の細工用叩き鑿を使用していましたが、以前はこの荒彫りと仕上げ前の細工には、いろいろと欠点のある袋式鑿を使って来ました。しかし、強く、正確に打ち込むことができるカツラの嵌めた栗原式鑿の出現によって、木彫の仏像製作がしやすくなったと言えましょう。
先に紹介した吉川金次によると、正倉院に所蔵されている木製品の調度品や家具などから、5世紀の古墳時代の鑿は、7〜8世紀には飛躍的に改良されて、種類も豊富になっていたようであると指摘しています。この鑿の発達が、次の平安時代に仏像の木彫の発展を大きく促すことになったと言えましょう。
Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved