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「田中義廣についての新見解



T  いままで江戸幕末から明治にかけて活躍した道具鍛冶の國弘と義廣の関係については、兄弟であるとの通説でした。わたしもこの説に従って来ました。しかしどこの資料から言われ続けて来たのかわかりませんが、おそらくその主な一つが千代鶴是秀の話からではないかと思います。

 白崎秀雄著「千代鶴是秀」(1978年)に、「義廣の鉋は、いつも穏やかな上品な作柄でした。兄の國弘は地蔵橋(神田今川橋の近くの橋)にいましたが、気性も荒く作った刃物も鋭かった。」と千代鶴是秀の話を記載しています。

 土田一郎著「日本の伝統工具」(1989年)でも、千代鶴是秀から聞いた話から義廣を「兄、國弘と共に江戸に出て、大工道具専門鍛冶を営む」として、兄弟説を取ります。

 白崎氏は上記の著書で、國弘については浅草清島町、現在の東上野6丁目にある眞覺寺の過去帳や檀家の住所録から調べて、詳しく述べていますが、義廣については資料がなかったと思え、ほとんど述べられていません。そして「國弘は、江戸末期に越後三条から江戸に移り住んで、鑿鉋の鍛冶をもっぱらにした。田圃の義廣は、その弟、兄、或いは弟分とまちまちに伝えて定かでない」とも記述しています。

 國弘との関係がまったく語られていない新史料「怪物傳」の出現によって、いままでの兄弟説は信憑性がなくなったように思えます。

義廣 4寸鉋


U  白崎氏は著書の中で修業先について、「二人とも(國弘・義廣を言う)、俗に兵部さんで通っていた越後の幸道あたりに仕事を教わったんじゃないでしょうか」と千代鶴是秀の話を紹介します。土田氏も千代鶴是秀の話から、著書の中でこの説を取ります。

 義廣については、この説は「怪物傳」によって否定されます。日本橋中橋の鑿鍛冶・鈴田の定が修業先であったことが分かったからです。

 また、土田氏は著書の中で、義廣の弟子に「房州白浜の豊廣や静岡弁天島の武虎がいた」とやはり千代鶴是秀の話から述べていますが、弟子を決して取らなかったという「怪物傳」の内容から、その信憑性に疑問が生じます。



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