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(二) 「玄能」の文字が表記された時代



 現在、「げんのう」と言うと、宛字と言われる「玄能」の漢字がよく使われています。私が大学を卒業してスズキ金物店に入った40数年前は、大工職の使う金槌は極く当然のように「玄能」の文字が使われていました。 

どのような理由で「源翁/玄翁」が「玄能」へと漢字表記されるようになったのかは解りませんが、広辞苑によると「能」の文字の意味に「よく事をなし得る力」とありますので、金槌にこの文字を宛てたのは,「源翁/玄翁」と名付けられた由来から、まさに適切であったのではないかと思います。


 では、「源翁/玄翁」と漢字表記された大鉄槌が、いつごろから「玄能」の文字で漢字表記され出したのでしょうか。

 6代将軍徳川家宣時代の百科事典「和漢三才図会」(1712年)には、まだ大鉄槌を「源翁」と表記しています。この図会で紹介されているものは、石工職の使う柄の長い大鉄槌で、大工職の使う金槌ではありません。 

14代将軍徳川家茂時代の後半の元治元年(1864年)頃と思われる「道具字引図解(初編)」のなかでは、柄の短い頭の両端が尖っていない大きい鉄槌のことを「玄能」と、また頭の一方が尖っている鉄槌を金槌と紹介しています。これらも、石工職の使う鉄槌で、大工職の使う金槌ではありません。


このことから「玄能」と表記されるようになったのは、江戸時代の後半以降からではないかと推測できますが、実は「源翁」・「玄翁」・「玄能」と漢字表記されて来た鉄槌が、主に石工職の使う大型の鉄槌であったと解ります。大工職の使う金槌ではなかったのです。

では、大工職の使う金槌が、「げんのう」と呼ばれるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。


 大工職は古代から金槌を使っていましたが、釘が建築に多く使用されていませんでしたので、それはまだ補助的な存在の道具でした。大工職にとっては大小の木槌の方が、木組合わせや鑿叩きなどに多用される主力の槌でした。しかし、竹中大工道具館渡邊晶主席研究員によると、絵画資料などから18世紀後半から19世紀初め頃に鑿叩き用の槌が木製から鉄製に移行したと指摘していますので、この頃から大工職の主要な道具として金槌が使われ始め、頭の両端が尖っていない鑿叩き用の大きい金槌が「げんのう」と呼ばれ出したものと思われます。

 大工職の使う「げんのう」の漢字表記は、大正2年に志賀直哉が書いた小説「清兵衛と瓢箪」のなかに、「父は清兵衛をさんざん殴りつけ、瓢箪を一つ残らず玄能で割ってしまった。」とあります。また、大正時代の終り頃に芥川龍之介が書いた「追憶」と言う本の中に、「ただ広さんという大工が一人、梯子か何かに乗ったまま玄能で天井を叩いている。」とありますので、大工職が使う「げんのう」は、当時の社会では「玄能」と漢字表記するのが一般化していたようです。

以上のことから推測すると、江戸時代の後半に鑿叩き用の金槌が出現して、それを「げんのう」と呼び、「玄能」と言う漢字で表記し、後の世に広まって行ったのではないかと思われます。





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