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(一) 名工 長谷川幸三郎



 長谷川幸三郎は、昭和10年8月に木鋏鍛冶であった坂井庄平の三男として新潟県三条に生まれました。昭和56年に79歳で亡くなった父庄平は、江戸時代の終りの慶応年間から始まったと言われる三条の木鋏鍛冶の伝統を受け継ぐ名工の一人として知られた鍛治職でした。


当時、全国の刃物道具鍛冶の作品を集めて開催されていた利器の或る展示会では、坂井庄平の作品が第1回の2位を除いて常に1位に選ばれ、その技量が高く認められてのちに無鑑査となったとの話が残っています。


長兄の昇作(昭和4年生まれ)は父の後を継いで木鋏鍛冶(本成寺昇銘)に、次兄の政善(昭和5年生まれ)はブリキ鋏鍛冶(別名切り箸鍛冶/正久銘)になりましたが、三男の幸三郎は幼い5歳の頃に金槌鍛冶の長谷川家に弟子養子に入り、坂井幸三郎から長谷川幸三郎と苗字を改めて金槌鍛冶の修業に努めました。


しかし、大量生産に流れてしまう金槌の製造にはいつしか満足が行かなくなり、のちに菱貫銘で有名になった義兄の長谷川貫一郎と一緒に仕事して玄能製造の基本を、10代終り頃に学んだ幸三郎は、奥が極めて深い玄能と言う金槌分野に挑戦するために、やがて義父のもとから独立しました。


 玄能とは、ただ形を作り、柄の入れるヒシ穴をあければそれでいい、と言うものではありません。東京大学の村松貞次郎名誉教授の言葉を借りれば、玄能は「もっとも単純な形態・機能の道具だけに、その全体の形・寸法そして柄穴の位置・形・寸法、すべてがバランスに微妙な影響を持ち、打撃の効きを左右する。」と言われます。

また、軟鉄の両端に鋼を鍛接するのですが、軟鉄は手への衝撃をやわらげて打撃の効果を高め、鍛接された鋼は打撃面の強度とねばりを確保しますが、硬すぎれば欠け、軟らかすぎれば打撃面が崩れてしまいます。柄穴の位置・仕上げも重要で、全体のバランスや柄が抜けないように細心の考慮が必要です。


玄能とは、大工道具の中でもっとも単純な形態と機能の道具ですが、製造においては極めて奥が深く難しい道具なのです。


この玄能作りのため長谷川幸三郎は20代後半に、大工道具研究の先駆者の一人と知られた土田一郎を訪れ、その後土田から玄能作りにおいて多くの教示を受けながら、失敗を繰り返してこれらの問題を次々に克服し、玄能鍛冶として名を上げて行きます。


やがて幸三郎は、玄能の生地を何度も折り返して鍛えることによって、木の杢目のような美しい模様を描き出す玄能の製造に挑戦し出しました。8年間の研究の後、出来上がった杢目玄能を土田のもとに持っていたところ、大工道具鍛冶の名人千代鶴是秀が曾て鍛った杢目玄能を見せられ、まだ自分の未熟さを痛感し、千代鶴是秀の杢目玄能を目標にさらに研鑽を積み、次々に芸術品のような素晴らしい杢目模様の玄能を作り出し、名工として幸三郎の名をさらに高めて行きました。


この幸三郎について、村松貞次郎東京大学名誉教授は次のように述べています。「竹を割ったような気性、剛毅で磊落である。幼い頃の苦労が少しも表面に出ていない。情はこまやかである。野の貴人というべきか。」と。


幸三郎は円熟度を増し、これからどのような素晴らしい玄能が作り出されていくのかと大きな期待が持たれているとき、病に倒れ、平成16年の11月に日本一の玄能鍛冶の名工として惜しまれて69歳の鍛冶人生を終えました。


 しかし、幸三郎には、道心斎正行(まさつら)銘の馬場正行(まさゆき/昭和24年生まれ)と浩樹銘の相田浩樹(昭和39年生まれ)の二人の弟子がいます。道心斎正行はすでに名工として誉れも高く、相田浩樹も丁寧で美しい仕上がりに注目され、将来を期待されています。幸三郎はこの世を去りましたが、生涯を通して習得した玄能作りの技術は、確実に伝承されています。



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