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はじめに |
太平洋戦争が始まる昭和16年以前の東京には、鉋・鑿鍛冶が50軒以上存在していました。そのうち鑿鍛冶は35軒余りありました。当時は、ほとんどの鉋・鑿鍛冶が金物問屋専属で仕事し、その問屋の銘を鍛つ、いわゆる「かかえ鍛冶」と呼ばれる人達で、自分の銘を鉋や鑿に打つことができる「誂え鍛冶」と呼ばれる人達は4、5軒余りしかいませんでした。 |

平成20年10月現在では、東京の鉋鍛冶は「も作」銘の神田規久夫氏(足立区興野)と「伯光」銘の目次伯光氏(稲毛市押立)、鑿鍛冶は「長弘」銘の田中一郎氏(江戸川区西小松川町)と三代目「左久作」銘の池上喜幸氏(中央区月島)の4軒になってしまいました。 |
土田一郎氏によると、鑿や鉋を造る技術は、江戸時代後期に並ぶ者なしと言われた名工「重房」がいた会津や、「重房」の刃物造りの影響を大きく受けた与板刃物鍛冶の祖、龍眠斎兼行や三条の「国弘」・「義廣」(当時まだ修行中でした。)がいた越後から、江戸に伝えられたと指摘されます。 |
この東京鉋・鑿鍛冶の人達を大別すると、〔1〕国弘・義廣の系統、〔2〕石堂・千代鶴の系統、〔3〕江戸刃物鍛冶の系統、〔4〕その他の人達、に分類することができます。 |



〔1〕と〔2〕については「千代鶴是秀の系譜」に書きました。〔3〕と〔4〕については、ほとんど世に知られていなく、本人や関係者の多くが他界されて忘れ去られつつありますので、これらの鍛冶職の人達について「東京鑿鍛冶の系譜」と題して書き、広く世に知ってもらうと共に、後世に記録として残していきたいと思います。〔3〕と〔4〕の中の人達には、鉋を鍛つこともありましたが、鑿を鍛つのを主力とする人達でしたので「東京鑿鍛冶の系譜」としました。 |
尚、この原稿を書くのに、三代目左久作の池上喜幸氏や助近銘の鑿鍛冶であった東京国分寺の藤倉萬之助氏のお話、二代目左久作の池上喬庸著「誂え刃物鍛冶師三代の記録/江戸鍛冶の注文帳」(1986年)、土田一郎著「日本の伝統工具」(1989年)、松永ゆかこ著「江戸東京大工道具職人」(1993年)を参考にさせて戴きました。以下、敬称を略させて記述させて戴きます。 |
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