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(四) その他の地域の前挽鋸製造職人について



 京都や近江甲賀そして播州三木のように前挽鋸の産地として大きく発展することはありませんでしたが、前挽鋸を製造する鋸鍛冶が各地に存在していた記録が残されています。それらについて、述べてみましょう。

 かつて四国における林業と鍛冶の盛んな地域と知られた土佐山田町の町史によると、11代将軍徳川家斉時代晩年の文政年間の末に、土佐田島の尾立団次という鍛冶師が高知東部の安芸郡田野村に前挽鋸製造の習得に行って帰郷し、この地域の片地村で最初に前挽鋸を造り始めたと言います。


 伝承として、安芸郡田野村で前挽鋸を製造していた鋸鍛冶は中島長左衛門で、彼は元刀鍛冶であったと言われています。当時はまだ土佐には前挽鋸鍛冶がいなく、二人挽きの大鋸が使われていたので、三木の鋸鍛冶から前挽鋸の製作技術を習得し、前挽鋸を造り始めたと言われています。


 広島県の北部の中国山地の山間に千代田という古い町があります。ここで一軒の鋸鍛冶が前挽鋸を造っていました。この地方は林業が盛んでした。この地で前挽鋸を製造した初代三上新三郎は天保3年(1832)創業とのことですが、本格的に鍛冶を始めたのは明治になってからといいます。代々にわたって前挽鋸専門鍛冶で、昭和15年頃の最盛期には職人が30人ほどいて、長さ6尺(約60p)幅1尺(約30p)の前挽鋸を鍛ったときには、向う鎚が7人掛だったそうです。4代目まで続きましたが、昭和46年鍛冶場の火が消えました(竹中大工道具館/前挽大鋸の終焉)。


 栃木県鹿沼にも、前挽鋸専門の中屋富助という鋸鍛冶がいました。いつの頃から前挽鋸を製造し出したのか不明ですが、この鹿沼産の前挽鋸のことを、この地方の木挽き職たちは鹿沼道具と言っていたそうです。歯側の部分は和鋼を使い、背・首・コミの部分は軟鉄を使って製作していましたが、明治30年頃に廃業しました(吉川金次著の前掲書)。


 埼玉県にも、前挽鋸を製作した鋸鍛冶がいました。秩父の中屋留吉と川越の中屋辺作です。中屋留吉の経歴については不明ですが、初代中屋辺作は前挽鋸などを造ってその名が高く、明治43年に47歳で亡くなっています。息子である2代目中屋辺作は、昭和時代の初期に長さ7尺5寸(約227p)重さ3貫200匁(約12kg)の超大型前挽鋸を造っています。この2代目辺作は、大工職用の鋸なども造っていましたが、昭和55年88歳で鋸鍛冶をやめています(拙著「続・日本の大工道具職人」)。


(了)


参考
吉川金次著「ものと人間の文化史/鋸」1976年
桑田 優著「伝統産業の成立と発展―播州三木金物の事例―」2010年
拙著「日本の大工道具職人」2011年
拙著「続・日本の大工道具職人」2012年
拙著「大工道具文化論」2015年
土屋安見・石村具美論文「六道絵の大鋸」
竹中大工道具館研究紀要 第3号1991年
赤沼かおり・福井幸子論文「日本近世以前における鋸の使用法」
竹中大工道具館研究紀要 第9号 1997年
星野欣也・植村直子論文「近世・近代における前挽鋸の変遷について」
竹中大工道具館研究紀要 第19号 2008年
滋賀県甲賀市教育委員会主催 伊藤誠之甲賀市史編纂調査委員講演資料
「甲賀前挽鋸の誕生―発見された前挽鋸鍛冶の古文書から―」2015年5月
インターネットに掲載された論文
T 長澤伸樹論文「楽市楽座令研究の軌跡と課題」
U 奥田修三論文
  「幕末の株仲間―京都嵯峨・梅津・桂三か所材木仲間について―」
インターネットに掲載された以下の記述
「フリー百科事典ウィキペディア 株仲間」・「鎌倉から室町時代にあった商工業者  同業者組合の座と江戸時代の株仲間」・「歴史用語解説 株仲間 江戸時代」・「株仲間とは コトバンク」・「前挽大鋸は何を語る」・「県選択民俗文化財 有形民俗文化財の部 甲賀の前挽鋸製造用具 附 販売資料等」・「甲賀の前挽鋸/甲賀市」・「甲賀の杣と埋もれ木/甲賀市」・「甲賀の前挽鋸製造重要有形文化財に 滋賀から初:京都新聞」など


(平成27年7月吉日に記す)

   有限会社 スズキ金物店
     代表取締役 鈴木 俊昭





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