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(二) 会津最後の鋸鍛冶「中屋伝左衛門」について



 安土・桃山時代から続き、全国にその名を誇った会津鋸鍛冶の長い歴史は、平成17年(2005年)に3代目「中屋市右衛門」(川村健一)が鍛冶場の火を消し、とうとう3代目「中屋伝左衛門」一人なってしまいました。

 「伝左衛門」工房は、初代・2代目の最盛期には弟子などを含めて10人以上が、朝早くから賑やかに鋸を鍛っていました。また当時の相生町(以前の地名は博労町)には、35軒の鋸鍛冶がいました。フイゴ炉作りに適した土が周辺にあったからと言われています。

 現在は、3代目が一人残っているだけで、僅かな材料を用いて伐採用の手曲がり鋸を鍛っています。まさに会津鋸の歴史は終焉を迎えつつあります。そこで、会津最後の鋸鍛冶となった3代に渡るこの「中屋伝左衛門」について述べてみましょう。

 初代「中屋伝左衛門」は、本名を五十嵐千代治といい、明治21年に生まれました。「中屋重左衛門」系であった3代目「中屋忠左衛門」の一番弟子になり、年期明け後にしばらく師匠の下で職人として働きましたが、やがて現在地の相生町に独立しました。鋸鍛冶は、千代治が尊敬していた祖父・会津藩士であった五十嵐伝左衛門の名を取って、「中屋伝左衛門」としました。

 初代「伝左衛門」は仕事熱心で人望もあり、主唱者となって大工鋸の同業組合を作り、代表者となって業界発展のために尽力しました。しかし、昭和13年に53歳という鋸鍛冶として一番油の乗り切っている時期に亡くなりました。

 2代目「中屋伝左衛門」は、大正7年生まれで、本名を五十嵐徳市といい、父である初代の下で大工鋸造りの修業をしました。後に伐採用の天王寺鋸造り方法を独学で習得しました。父同様に仕事や研究熱心で、越後の問屋に販路を拡大したり、熱処理に電気炉を使うなど鋸鍛冶仕事の機械化に尽くしました。平成22年に92歳で亡くなりました。

 3代目「中屋伝左衛門」は昭和19年生まれで、本名を五十嵐征一といい、現在67歳です。高校を卒業後、父の配慮で新潟三条の名門鋸鍛冶「中屋伊之助」の分家にあたる深沢一二に弟子入りし、修業をしました。年期が明け、お礼奉公後に郷里の会津に戻り、父の後を継いでいます。

 しかし急激な鋸需要の激減で、平成20年に鋸鍛冶の火を消そうとしましたが、ホームページの開設で全国的にその名が知られ、メールによりたくさんの声援を受け、残された材料(安来鋼の黄紙材)で鋸鍛冶を続けています。

 3代目「伝左衛門」は、「鋼があるうちは作る魅力の鍛冶屋人生」で、「手持ちの鋼がなくなって鋸鍛冶屋人生を終えたとしても、目立て屋としては長く続けられることで納得している」と述べています。



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