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(二) その他の鑿鍛冶たち


 東京にはどの系統にも属さない多くの鑿鍛冶がいました。この人達についても記述して記録に残していきたいと思います。

 明治の30年代に精密な工具・金物を作る機械鍛冶として名を高め、その後に刃物鍛冶に転向し、名品の鑿などを鍛った本所千歳町の「助国」(新潟県与板出身)や浅草橋の「国秀」がいました。この二人の造った鑿から多くを学んだ千代鶴是秀が「私の師匠たちです。」と言うほどの名工でしたが、「助国」は昭和5年頃に、また「国秀」は昭和10年頃に廃業しました。

「正芳」刻印 鑿
 新潟から出て来て東京の鑿鍛冶になった人達の中に、西小松川の初代「長弘」の田中秋二郎(与板出身)と中野の初代「市弘」の山崎市太郎がいました。また東京出身で、昭和5年荒川区三河島で鑿鍛冶を始めた初代「正芳」の加藤由之助がいました。(「正芳」については「東京の忘れられた鑿鍛冶名人」を参照ください。)

「長弘」刻印
 初代「長弘」は、千葉県幕張で刃物鍛冶をしていた兄の下で修業し、独立しました。兄は、金物問屋山炭商店が所有していた「久弘」銘で鉋・鑿を鍛っていた刃物鍛冶の下で修業した人でした。

 やがて、長男の一郎(大正13年生まれ)が昭和15年に父の下で修業を始め、昭和55年二代目「長弘」として後を継ぎ、鑿鍛冶の達人として江戸川区伝統工芸士になり、現在に至っています。
「長弘」鑿

 「市弘」は大正13年に創業し、初代の山崎市太郎の弟、山崎勇が二代目「市弘」を継ぎました。昭和24年、登録商標問題が起こり「市弘」銘が使えなくなってしまいましたので、昭和25年「左市弘」銘を商標登録し、以後「左市弘」の刻印を使用しました。二代目の息子・正三(昭和13年生まれ)は、昭和28年父の下に弟子入りし、左利きを矯正するために、通常7年の修業のところを、ヤスリ掛け3年・セン掛け3年・火造り3年・焼き入れ1年と10年間の厳しい修業を父から受けました。正三は昭和62年、三代目「左市弘」を継ぎ、弟の明倫と一緒に鑿を鍛ちました。

 二代目、三代目は名工としての誉れも高く、業界の指導者としても貢献されました。特に三代目は鍛冶について高度な技術と深い知識を持ち、大学の講師となったただ一人の鑿鍛冶でした。しかし、平成18年三代目が亡くなり、「左市弘」は鑿鍛冶を廃業しました。

 明治の頃に世田谷狛江の鋏鍛冶に弟子入りし、その後鑿鍛冶になった人に初代「吉弘」の鈴木吉五郎がいました。初代は独立して北区田端で鑿鍛冶を始めました。やがて息子の章助が二代目「吉弘」として父の後を継ぎ、東京国分寺に移って鑿鍛冶をしていましたが、平成になってからしばらくして鑿鍛冶を止めました。

 初代「吉弘」に昭和9年弟子入りした人に藤倉萬之助(大正9年埼玉県生まれ)がいます。30歳過ぎに独立して「助近」銘を名乗り、東京国分寺本多で鑿鍛冶をしましたが、平成10年頃に鑿鍛冶を止めました。

 このほかに、自分の銘であった「市国」よりも問屋の商標であった「弘正」銘で名を知られた東京小松川の長谷川藤作(大正2年生まれ)や「光月」銘の神奈川藤沢の山崎信次がいました。この二人は「一文字」銘の東京小松川の横坂三太郎に弟子入りし、修業しました。「弘正」が「光月」の兄弟子でした。「弘正」は平成になってから、「光月」は昭和の後半に鑿鍛冶を止めました。
「光月」刻印「光月」鑿




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