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(一) 日本の鑿における「裏スキ」の誕生



T 古代日本の出土鑿について

 4世紀から6世紀のかけて築かれた古墳から、斧・釿・錐・金槌などの鉄製木工具と共に、鑿も多く出土しています。5世紀初頭の金蔵山古墳(岡山県)から、木細工用の鑿が数本出土しています。これらの鑿は槌で叩いて使用する建築用の鑿ではなく、前方に押して削る片刃の鑿です。注目すべき点は「裏スキ」がなされていることです(吉川金次著「ものと人間の文化史/斧・鑿・鉋」昭和59年)。 

吉川金次は、「片刃で裏スキがあると、鑿としての機能は向上するが、刃は弱い。軟鉄であったら到底刃先がまくれて使えない。ゆえに付鋼にしていた可能性が高い。」と、また著しく腐食された鑿の「先端部のところは溶接部の剥離を思わせる。古い利器の溶接部剥離は随分見ているが、そうした状態にそっくりだ。」(前掲書)と述べて、鋼が鍛接されていた可能性を強く主張します。


「裏スキ」を持つということは、これらの出土鑿が片刃で、しかも鋼が鍛接されていた可能性が高いことを意味するのです。


同じ5世紀の奈良県の兵家6号墳や塚山古墳からは、肩の張り出した刃幅の広い鑿が出土しています。これらの鑿は、明らかに建築用の鑿で、鉄の部分を柄に差し込む茎式(なかごしき)鑿と鉄を袋状に加工して柄を差し入れる袋式鑿です(注1)。これらを復元した鑿が、竹中大工道具館に古代鑿として展示されています。その鑿の裏を見てみますと、明らかに「裏スキ」があります。


(※1) 袋式鑿は、古代中国で考案された木工・建築用の鑿で、柄を握って木に押し込んで穴をあけたり、槌で叩いてホゾ穴などを掘ります。日本では平安時代になるまで、茎式鑿と袋式鑿が併用されて来ました。        吉川金次氏によると、平安時代に茎式鑿の柄に鉄製の口金とカツラが付けられ(吉川金次著「ものと人間の文化史/斧・鑿・鉋」昭和59年)、木槌によるより強い打撃に耐えられるようになり、打撃に弱い袋式鑿は使われなくなって行きます。

日本では、弥生時代前期(紀元前3世紀始め頃)から中期にかけて、朝鮮半島から青銅器と共に鉄器が伝わりました。そして、朝鮮半島や中国から輸入された鉄器や鉄素材を再加工したり、小規模な製鉄が各地で試みられて来ました。製鉄が確実に始まったのは、5世紀後半の古墳時代からでした。


弥生時代の中期前半の遺跡からは、鋼の精錬を示す鉄滓が発見されていることから、小規模な鋼の製造が、すでに日本で行われていたと推察することができます。したがって、これらの古墳から出土した鑿が、日本で造られた可能性が大なることが解ります。                        次に、刃物にこの「裏スキ」を付ける方法は、中国大陸や朝鮮半島から伝播したものなのか、日本で独自に考案したものなのかが問題になります。




U 古代中国の出土鑿について

 インターネットのブログ「古代製鉄の起源に迫る」や「中国の製鉄技術史」によると、古代の中国では、紀元前14世紀頃隕鉄による鉄器が造られましたが、青銅器時代を経て確実に製鉄が始まったのは紀元前7世紀頃からでした。当初は低温製鉄法(約1000度)で、鉄が半溶解状態になった塊を炉の中から取り出して鍛造し、鉄器に鍛え上げていました。この方法は少量しか鉄の生産ができず、当時の金属製品はまだ青銅器が中心で、それらは鋳造で製造されていました。

紀元前5世紀頃になると、高い炉を造り、送風の強化による高温製鉄法(約1500度)を開発し、鉄を液状で量産することができるようになり、この方法が主流の製鉄法に発展して行きました。これにより、鉄器も鍛造ではなく、青銅器時代の鋳造技術をもとにして、鉄器を大量に製造できる鋳造法へ転換して行きました。それ故に、「中国古代の金属製造技術は、鋳造に始まったことに最大の特徴がある」(華覚明中国科学院自然科学史研究所教授)と言われます。また、焼入れして硬くなり、脆くなった鋳鉄を焼き鈍し技術の発見によって克服したのも、紀元前5世紀頃でした。


紀元前3世紀頃には、銑鉄を脱炭して鉄鋼を作り、再加熱鋳造して鉄器を作る方法、紀元前2世紀には炒鋼技術(高温に熱して液体化した銑鉄に送風して酸素を送り込み、掻き混ぜて炭素を取り除く方法)、紀元2世紀には炭素量を調節する技術(液体化した銑鉄と錬鉄を混ぜ合わせて炭素を含ませて鋼にする方法)が発明されましたが、これらの方法は、当時の中国皇帝によって厳重に管理され、国外に流出するのを防いでいました。古代の日本に伝わったのは、中国の初期の低温製鉄法で、この方法が「たたら製鉄法」へと独自に日本で発達しました。


このような古代製鉄史を持つ中国では、青銅器時代に青銅製の鑿が、また鉄器時代には鉄製袋式鑿が出土しています。中国古代では、鋳造や鍛造によって多くの鑿が製造されましたが、全鋼製の鑿(鋼を鍛接せず、鋳造や鍛造された全体を焼入れして表面だけを堅くした鑿)のため、また3代将軍徳川家光時代の中頃である1637年に中国で書かれた産業技術書の「天工開物」によると、「鑿は熟鉄を鍛え、鋼を先端にはめる」とありますが、現在使われている中国の鑿や韓国の鑿にも「裏スキ」がないことから推察すると、古代中国では「裏スキ」は考案されなかったと思われます。



V 古代日本における「裏スキ」の出現

弥生時代(紀元前4世紀〜西暦300年)の出土品に、全長が20p以下、刃部の長さが約3pある槍の穂先のような刃物があります。この形状の刃物は、春秋戦国時代(紀元前8世紀〜紀元前3世紀)の中国大陸や朝鮮半島から出土例があり、中国では「削」といわれ、木簡や竹簡に誤って書いた文字を削る道具であったといいます。(沖本弘論文「ヤリカンナについて」竹中大工道具館研究紀要第9号1997年6月)。


 この刃物が弥生時代の遺跡から出土しています。しかも「シノギ」と「裏スキ」が見られると言います。(沖本前掲論文) 

沖本論文には、この刃物が日本で造られたものなのか、朝鮮半島から伝来したものなのかについては語られていませんが、ブログ「鍛造の歴史 日本編 日本の鍛造の生い立ち」によると、弥生時代には小さな槍鉋や鏃(やじり)のような鍛造の刃物が造られていたといいます。ここでいう槍鉋とは、古代中国で「削」と言われていた刃物のことですが、このことから、弥生時代の遺跡から出土した槍の穂先のような小さな刃物は、日本で造られた可能性が大と言えましょう。どうして「裏スキ」を付けたのかは、良く削れる鋭い刃に研げるようにしたかったからでしょう。もしかしたら、鏃(やじり)の作成から「裏スキ」は来ているのかも知れません。


この刃物は、仏教寺院が建築される飛鳥時代頃には、穂の長さが10p前後になり、柄を入れた全長が90p未満のヤリカンナに進化し、室町時代に台付き鉋が伝来するまで、釿(チョーナ)で木材を斫った痕(あと)を平らにする大工職の主要な木工具になります。





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