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(二) 平安時代について



 平安時代は、794年垣武天皇の平安京遷都から1192年源頼朝の鎌倉幕府成立までですが、初期から中期の弘仁・貞観時代と後期の藤原時代に分けて、この時代の木彫仏像と鑿との関連を述べてみましょう。




T 弘仁・貞観時代の仏像


 この時代から奈良時代のような国家仏教という考え方が見直され、国家と仏教の分離が進み、仏像製作に国家の庇護が得られなくなりました。そのために高価な乾漆像や保存に問題がある塑像が次第に造られなくなり、木彫仏像が主に造られるようになります。


またこの時代の初め、最澄や空海によって中国の唐から新しい仏教である密教が持ち込まれ、仏教の世界観が大きく転換しました。そのため、密教系の仏像が数多く造られ、明王に代表される多面多臂像の製作が増えます。


弘仁・貞観時代の仏像製作の大きな特徴として、

@ 密教系の木彫仏像
A 奈良時代からの技法(木心乾漆像)を受け継いだ仏像
B この時代に突然に出現した一木彫りの仏像作風で、厳しい 顔立ち、デザイン的な衣文の多様(翻波式衣文)などがある仏像
という三つの系統の仏像が製作されることです。

 @の系統として観心寺如意輪観音像(頭や体の主部が榧(かや)の一木造)、神護寺宝塔五大虚空菩薩像(檜の一木造・仏師瑞泉作)
 Aの系統として広隆寺講堂阿弥陀如来坐像(木心乾漆像)、唐招提寺千手観音立像(木心乾漆像)
 Bの系統として新薬師寺薬師如来坐像(頭や体の主部が榧の一木造)、神護寺薬師如来立像(檜の一木造)、元興寺薬師如来立像(桜の一木造)などがあります。

一木造りの仏像には、針葉樹材である檜・榧のほかに、それぞれの製作地で入手しやすい桂・欅・桜・樟などの広葉樹材も使われました。その後、平安時代の後期に上記の三系統は一本化され、和様彫刻の原型になります。




U 藤原時代(平安時代後期)の仏像


 894年、遣唐使が廃止され、和風文化が開花して行く中で、仏像彫刻も中国の影響から脱皮して、日本独自の和様彫刻が完成に近づいて行きます。この時代、仏師の地位も向上し、定朝のように特定の貴族に使える仏師も現れます。この定朝は、伏し目・丸顔の穏やかな風貌・低い膝高・正三角形の体躯などといった「定朝様」の仏像を、檜の寄木造りという新しい製作技法で完成させ、以後の仏像彫刻に大きな影響を与えることになります。


 一木造りから寄木造りへの転換、そして集団で仏像のそれぞれの部分を彫る工房の登場によって、沢山の大型の仏像を彫ることが可能になり、技法は圧倒的に寄木造りになっていきます。


またこの時代、末法思想が広がり、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(檜の寄木造)・法界寺阿弥陀如来坐像(檜の寄木造)・浄瑠璃寺九体阿弥陀像(檜の寄木造)・往生極楽院阿弥陀三尊像(檜の寄木造)などに代表される大きな阿弥陀如来像が多く造られるようになり、材質は檜が主力になります。阿弥陀如来は、死後に迎えに来て、極楽浄土に案内してくれる仏様と信じられました。


この時代を経て、日本の仏像は、力強い写実性と豊かな人間味のある鎌倉時代の寄木造りの大型木彫仏像へと発展して行きます。




V 平安時代の鑿

 平安時代になると、次第に鉄鉱石・砂鉄から砂鉄のみへと鉄の材料が変わります。そして、鉄の生産は砂鉄が豊富に取れる中国地方の山間地に集中して行きます。奈良時代は、鉄の生産が官営で行われていましたが、鉄が普及するにつれて、地方の豪族なども鉄の生産を行うようになりました。


鉄の生産が増えるにつれて、山でタタラ製鉄をする大鍛冶(おおかじ)、その鉄を使って製品を作る小鍛冶(こかじ)、鋳物を作る鋳物師(いもじ)へと分業化して行きました。


刀剣も、奈良時代までは真っ直ぐな直刃や諸刃剣で、重い上に切れ味も悪く、叩いたり突いたりする剣でしたが、平安時代の刀剣からは。前の時代の刀剣より細く軽い湾刀(反りのある刀剣)になり、切る刀剣になります。平安京遷都後、「古刀の山城伝」といわれる刀鍛冶たちが京都を中心にして、湾刀を製作します。このことは、鋼の製造技術と鍛冶技術の向上を意味しています。


以上のことが基盤となって、この平安時代には、鑿の発達に更なる進展がありました。鑿の柄にカツラと口金が嵌められた叩き用の鑿の出現です。


 古代の叩き鑿である袋式鑿の袋部分が進化したものが、鑿の柄元に付けられた鉄製の口金です。袋式鑿は、奈良時代の鑿のところで指摘しましたように、叩く用の鑿としてはいろいろ問題点がありました。そこで、栗原式鑿が7〜8世紀頃に新たに考案され、使われ始めたものと思われます。

しかし、この栗原式鑿は、袋式鑿より叩き用の鑿として機能は向上しましたが、カツラの付いた柄頭まで刃の幅と同じに頑丈な鉄部を貫通させるために、刃幅が広くなるとそれだけ重く、当時貴重な鉄を余計に使うという問題がありました。


 鑿の機能の向上は、良く切れて、軽く使い易いという単純明快な追求です。そこで、鑿身に堅固な短い茎(なかご/コミ)を作って軽量化し、それを柄に入れ、柄割れを防ぐために柄頭にカツラを、柄元には強い打撃に耐えるように口金を嵌めた形態を考え出しました。口金の誕生です。現代の鑿の原型です。

 鎌倉時代の絵巻である当麻曼荼羅縁起や春日権現霊験記などには、カツラと口金の嵌められた叩き用の鑿に木槌を振るう萎え烏帽子を被った番匠(当時の建築工人の呼称)が描かれています。当時は、すでに鑿にカツラと口金が嵌められて使われていたと解ります。

では、いつ頃にカツラと口金が嵌められた叩き用の鑿が出現したのでしょうか。


平安時代の絵画や文章に記録はありませんが、前掲の吉川金次は、「鑿のこれらの工夫と進歩は一朝一夕に成ったものではないが、口金、かつらつき鑿は平安時代には既に出現していたのではないかと思う。」と年代を推測しています。


 したがって、このカツラと口金は、建築用や木製品用の鑿ばかりでなく、平安時代の仏師たちが使う荒彫り用の叩き丸鑿・平鑿や細工用の叩き丸鑿・平鑿・三角鑿などにも当然嵌められ、仏像を彫っていたと思われます。

また、平安時代の刀剣から推察できるように、製鋼技術は向上して鋼の品質もかなり良くなり、それを刃に使って切れ味の良い鑿が作られていたと思います。そして、これらの鑿が、その後の鎌倉時代の仏師たちに引き継がれて使用され、大きく見事な仏像を彫って行きます。


 しかし、これらの鑿を鍛っていた刀鍛冶、刃物道具鍛冶の名前は、この時代以前も以後も不明です。仏師たちが使っていた鑿も残されていません。鑿を作った人たちの名前が明確に解るのは、江戸時代後半の越後の刀鍛冶であった土肥助右衛門や坪井幸道あたりからです。しかし、この二人が仏師用の鑿を作っていたのかどうかは、記録として残されていません。

鑿という刃物道具を鍛つ鍛治職は、刀剣と違って、社会的に低く見られていたからでしょう。しかし彼らが、日本の木造仏像彫刻の発展を、仏師に鑿を作って、背後で支えていたのです。




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