平安時代は、794年垣武天皇の平安京遷都から1192年源頼朝の鎌倉幕府成立までですが、初期から中期の弘仁・貞観時代と後期の藤原時代に分けて、この時代の木彫仏像と鑿との関連を述べてみましょう。
この時代から奈良時代のような国家仏教という考え方が見直され、国家と仏教の分離が進み、仏像製作に国家の庇護が得られなくなりました。そのために高価な乾漆像や保存に問題がある塑像が次第に造られなくなり、木彫仏像が主に造られるようになります。
またこの時代の初め、最澄や空海によって中国の唐から新しい仏教である密教が持ち込まれ、仏教の世界観が大きく転換しました。そのため、密教系の仏像が数多く造られ、明王に代表される多面多臂像の製作が増えます。
弘仁・貞観時代の仏像製作の大きな特徴として、
一木造りの仏像には、針葉樹材である檜・榧のほかに、それぞれの製作地で入手しやすい桂・欅・桜・樟などの広葉樹材も使われました。その後、平安時代の後期に上記の三系統は一本化され、和様彫刻の原型になります。
894年、遣唐使が廃止され、和風文化が開花して行く中で、仏像彫刻も中国の影響から脱皮して、日本独自の和様彫刻が完成に近づいて行きます。この時代、仏師の地位も向上し、定朝のように特定の貴族に使える仏師も現れます。この定朝は、伏し目・丸顔の穏やかな風貌・低い膝高・正三角形の体躯などといった「定朝様」の仏像を、檜の寄木造りという新しい製作技法で完成させ、以後の仏像彫刻に大きな影響を与えることになります。
一木造りから寄木造りへの転換、そして集団で仏像のそれぞれの部分を彫る工房の登場によって、沢山の大型の仏像を彫ることが可能になり、技法は圧倒的に寄木造りになっていきます。
またこの時代、末法思想が広がり、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(檜の寄木造)・法界寺阿弥陀如来坐像(檜の寄木造)・浄瑠璃寺九体阿弥陀像(檜の寄木造)・往生極楽院阿弥陀三尊像(檜の寄木造)などに代表される大きな阿弥陀如来像が多く造られるようになり、材質は檜が主力になります。阿弥陀如来は、死後に迎えに来て、極楽浄土に案内してくれる仏様と信じられました。
この時代を経て、日本の仏像は、力強い写実性と豊かな人間味のある鎌倉時代の寄木造りの大型木彫仏像へと発展して行きます。
平安時代になると、次第に鉄鉱石・砂鉄から砂鉄のみへと鉄の材料が変わります。そして、鉄の生産は砂鉄が豊富に取れる中国地方の山間地に集中して行きます。奈良時代は、鉄の生産が官営で行われていましたが、鉄が普及するにつれて、地方の豪族なども鉄の生産を行うようになりました。
鉄の生産が増えるにつれて、山でタタラ製鉄をする大鍛冶(おおかじ)、その鉄を使って製品を作る小鍛冶(こかじ)、鋳物を作る鋳物師(いもじ)へと分業化して行きました。
刀剣も、奈良時代までは真っ直ぐな直刃や諸刃剣で、重い上に切れ味も悪く、叩いたり突いたりする剣でしたが、平安時代の刀剣からは。前の時代の刀剣より細く軽い湾刀(反りのある刀剣)になり、切る刀剣になります。平安京遷都後、「古刀の山城伝」といわれる刀鍛冶たちが京都を中心にして、湾刀を製作します。このことは、鋼の製造技術と鍛冶技術の向上を意味しています。
以上のことが基盤となって、この平安時代には、鑿の発達に更なる進展がありました。鑿の柄にカツラと口金が嵌められた叩き用の鑿の出現です。
しかし、この栗原式鑿は、袋式鑿より叩き用の鑿として機能は向上しましたが、カツラの付いた柄頭まで刃の幅と同じに頑丈な鉄部を貫通させるために、刃幅が広くなるとそれだけ重く、当時貴重な鉄を余計に使うという問題がありました。
では、いつ頃にカツラと口金が嵌められた叩き用の鑿が出現したのでしょうか。
平安時代の絵画や文章に記録はありませんが、前掲の吉川金次は、「鑿のこれらの工夫と進歩は一朝一夕に成ったものではないが、口金、かつらつき鑿は平安時代には既に出現していたのではないかと思う。」と年代を推測しています。
また、平安時代の刀剣から推察できるように、製鋼技術は向上して鋼の品質もかなり良くなり、それを刃に使って切れ味の良い鑿が作られていたと思います。そして、これらの鑿が、その後の鎌倉時代の仏師たちに引き継がれて使用され、大きく見事な仏像を彫って行きます。
鑿という刃物道具を鍛つ鍛治職は、刀剣と違って、社会的に低く見られていたからでしょう。しかし彼らが、日本の木造仏像彫刻の発展を、仏師に鑿を作って、背後で支えていたのです。
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