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(一) 明治時代初期の全国の鋸鍛冶職人



この論文に記載されている全国の鋸鍛冶職人をまず紹介しましょう。



T 地方の鋸鍛冶職人


1 加藤文次郎(神奈川県下相模国足柄下郡荻窪村)
 この人は木切鋸や鉄切鋸を作っていた人で、和鋼を使い、菜種油焼入れ法で製作

深沢伊之助(新潟県越後国蒲原郡三条町)
 この人は、有名な伊之助で、和鋼を使い、油焼入れ法で製作
深沢伊之助家は、11代将軍徳川家斉時代の文化14年(1817)生まれの3代目虎造が、鋸製作の材質を軟鉄から和鋼に転換して成功 し、一気に伊之助鋸の評価を高め、越後鋸の代表的な鋸鍛冶になる(拙著『続・日本の大工道具職人』。明治10年の博覧会に出品した作品は、年代的に3代目か4代目伊之助のものと推察できる。

飯田惣之助(茨城県常陸国茨城郡友部町)
 この人は和鋼で鋸を製作し、焼入れ法は不明

柳田治恵紋(栃木県下野国都賀郡鹿沼宿)
 この人は、前挽大鋸を製作していた鋸鍛冶で、松炭12貫目・棒鉄約1貫百目・鋼1貫目を使い、前槌(横座)一人・相槌(向う槌)7人で39回叩いて鉄板とし、鋏で鋸形に切って製作。鋸身は焼入れをしないので、その関係の記述はなく、銘を九左衛門という。この鹿沼には、前挽大鋸専門鍛冶として名の知れた中屋富助がいた。富助は明治30年頃に鋸鍛冶を廃業している(拙稿『近世における前挽鋸産地と前挽鋸鍛冶職人についての考察』スズキ金物店「道具の歴史」)。

小平新助(長野県信濃国諏訪郡豊平村)
 この人は和鋼を使い、油焼入れ法で鋸を製作

坂内山三郎(福島県岩代国大沼郡本郷村)
 この人は和鋼を使い、水焼入れ法で鋸を製作。

飯塚助左衛門(福島県岩代国会津郡若松七日町)
 9代将軍徳川家重時代の寛延年間(1748〜1751)に甲斐重右衛門が江戸に行き、鋸鍛冶中屋某の弟子になり、10代将軍徳川家治時代の天明年間(1781〜1789)に帰国し、大町二之竪で中屋重右衛門として開業。若松鋸製造の先駆の人で、以来会津鋸と唱え、特に著名。世人、称賛し好んで彼の鋸を買い求め、広く普及する。助左衛門の父である金三は、若松七日町の坂内(中屋)重左衛門にて修業し、天保7年(1836)に開業し、以来今日まで続く。助左衛門は和鋼を使い、油焼入れ法で製作、中屋助左衛門と号す。
 以上のように、飯塚(中屋)助左衛門は明治10年の博覧会への出品に添書きをするが、中屋重左衛門の経歴については、別の調査報告もある。中屋重左衛門家は、坂内粂左衛門から始まり、坂内清右衛門が伏見の中屋家に修業に行き、会津若松に帰郷してから中屋の屋号を名乗ったと言う。清右衛門には、二人の息子がいて、兄が重左衛門、弟が重右衛門を名乗ったが、兄が若くして亡くなったために弟が2代目中屋重左衛門を名乗る。12代将軍徳川家慶時代の嘉永5年(1852)に会津で発行された「若松禄高名五幅対」の中に鋸重左衛門とその名が記されている(平澤一雄著『産業文化史/鋸』)。この鋸鍛冶名工の重左衛門は、弟の方と思われる。
 中屋助左衛門家は、4代目(明治13年生まれ)まで続くが、明治10年に鋸を出品したのは、年代的に2代目助左衛門ではないかと推察できる。

磯部藤九郎(山口県長門国大津郡伊上村)
 和鋼を使い、水焼入れ法で製作

藤山仁左衛門(高知県土佐国吾川郡伊野村町分)
 和鋼を前槌(横槌)と2人の相槌(向う槌)で約2時間掛かって鋸の形を作り、再び10時間鍛錬し水焼入れ法で製作

10 川上慶太郎(福岡県筑後国三潴郡大角村)
 和鋼を使い、温湯焼入れ法で製作



U 東京府の鋸鍛冶職人


山本彦兵衛(浅草南元町)
 和鋼を使うが、焼入れ法は不明

高垣市五郎(桜田善右衛門町)
 和鋼を使うが、焼入れ法は不明
『東京名工鑑』によると、父の市五郎の下で修業し、明治9年家を継ぐ

矢木勘治郎(下谷坂本町3丁目)
 和鋼で、両刃鋸を菜種油焼入れ法で製作。横挽は1寸間に歯数22枚、縦引きは歯数10枚とした。星野・平澤の前掲論文によると、第一回内国勧業博覧会には、初代の創業が宝暦元年(1751)という大木重次郎(芝新堀町)も両刃鋸を出品また両刃鋸と思われる二得鋸を富永佐左衛門(住所不明)が出品

青沼幸右衛門(巣鴨二丁目)
この人は、大工用鋸ではないですが、品質の良くない出羽鋼で植物根切鋸を作り、水焼入れ法で製作






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