平澤教授によると、国立東京博物館に展示された香木を挽く18世紀の江戸時代の鋸である「つるかけ鋸」のたいへん細かい鋸歯を見て、「まぎれもない江戸目(現在の横挽き目)」であったといいます。
そして、「この江戸目の発生の時期が、いつごろであるかは、明らかでないが、おそらく、江戸時代のかなり早い時期に、すでに存在したのではないか」と、また「江戸で考案された新しい歯型が、地方に伝えられる際に、江戸目と名付けられたものであろう。」とも述べています。
さらに平澤教授は、9代将軍徳川家重時代の宝暦11年(1761)に書かれた「和漢船用集」で説明している歯細き鋸が、「おそらく、この江戸目形の鋸歯が刻まれていたものと考えられる。つまり、ここに(和漢船用集のことをいう)出ている挽切(ひっきり)も、細歯鋸も、鴨居切も、すべてこの江戸目形の鋸歯を刻んだ鋸であったと推測できるのである」とも述べています。
この論文によると、「和漢三才図会」・「和漢船用集」・「訓蒙図彙大成」・「身体柱立」・「道具字引図解」・シーボルト著「NIPPON」(在日期間1823〜1829に調査したものを纏めたもの)などに描かれた鋸の絵は、鋸歯が鈍角又は鋭角二等辺三角形や、柄の方向に傾いた鋭角又は鈍角三角形になっています。ヤスリで鋸歯の上目を擦ったと思われる鋸は見当たりません。「江戸目」の記述もありません。
渡邊論文には、さらに実物資料として京都の桃山天満宮所蔵の伝世鋸について詳しい考察もあります。この伝世鋸は、27年後には明治維新になる12代将軍徳川家慶時代の前半、天保12年(1841)に桃山天満宮社殿完成のとき、大工棟梁の坂田岩次郎が奉納したと伝えられる大工道具のなかにある5点の鋸です。これらの鋸は、造作材の横挽き鋸3点、造作材縦挽き鋸1点、造作材の曲線挽き用が1点です。横挽きと曲線挽き鋸が「イバラ目」で、縦挽き鋸が「ガガリ目」です。「江戸目」はありません。
平澤教授が国立東京博物館で見た「つるかけ鋸」の歯が、「まぎれもない江戸目(現在の横挽き目)であった」というのは、不思議でなりません。 そこで、「江戸目」出現時期について私が調べて得た結果を、以下述べてみましょう。
あと1点は、平澤一雄著「産業文化史/鋸」(昭和55年)に写真紹介されている江戸浅草の名工鋸鍛冶の中屋平治郎造の鋸です。刃の長さが32p、鋸身の肉厚が元刃部0.81o・最小値0.41oの頭部角型片刃鋸で、コミに「文久元年5月作」と切られています。文久元年は、14代将軍徳川家茂時代の中頃で、西暦1861年です。7年後には明治維新(1868)になります。
中屋平治郎の師匠といわれる会津の名工鋸鍛冶に中屋助左衛門がいます。この中屋助左衛門銘の頭部角型の「江戸目」片刃鋸が、土田一郎著「日本の伝統工具」に写真紹介されていますが、中屋助左衛門は4代目(4代目は明治13年生まれ)まで続き、この鋸が何代目の鋸なのか、また製造年月も不明なのが残念なことです。
「江戸目」は、残された鋸の形態から判断すると、大工職が使う造作材用の進化した横挽き鋸歯です。造られた年代が確認できる「江戸目」の鋸が、刃の長さが31.8pと32pということで、また当時の小型「江戸目」造作材鋸がまだ発見されていないことから、もしかすると当初は、大工職にとって大型の造作用横挽き鋸に「江戸目」が考案された可能性があります。
そして、江戸で考案された新しい鋸歯が、使い易くきれいに挽ける横挽き鋸の歯として全国に普及し、それが「江戸目」と呼ばれるようになったものと思われます。明治時代の初期に東京で誕生した両刃鋸の普及も、その一因となったと思われます。
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