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(二) 刀鍛冶 石堂各派について




T 「近江石堂派」

 石堂派は、華麗な丁字乱れを得意とし、匂本位の備前一文字派の古作を彷彿させる流派とされています。近江石堂派の祖は、近江石堂村生まれで石堂左近是一(別称川上左近)です。江州蒲生住と銘を切った近江石堂派の刀鍛冶達には、助長・助吉・助友などがいました。

 江戸時代の初期の頃、初代石堂左近是一は対馬守常光や越前守宗弘などと共に、近江から江戸に移住しました。その後、石堂派一門は江戸・紀州(和歌山)・大阪・福岡(筑前)などの各地に移り住んで鍛刀するようになり、その地名に派をつけてそれぞれ何々石堂派と呼ばれるようになりました。




U 「江戸石堂派」

 江戸石堂派は、江戸に移った石堂左近是一と対馬守常光の二系統に分けられ、大変繁栄した一派であったと評価されています。


 石堂系の初代石堂是一は、武蔵大掾藤原是一ともいい、初銘は「是勝」川上左近でした。二代目石堂是一は、初銘を「是長」川上忠右衛門といいました。6代目石堂重二郎の時、新新刀の祖・水心子正秀門下の備前伝加藤綱俊(千代鶴是秀の祖父)が名門石堂家の家督を買い取り、姉の子である政太郎を長女の婿養子にし、7代目石堂運壽斎是一を名乗らせました。備前伝7代目石堂は幕末屈指の名工となり、門人には会津の「2代目角元興」や「会津兼友」、水戸の「勝村徳勝」などがいました。また、江戸時代初期の石堂系に、美濃出身の名工の石堂泰東連がいて、名を八左衛門尉守久といい、入道し銘を東進と改めた刀工でした。

 常光系となる対馬守常光は、日置一之丞・三郎左衛門とも名乗り、のち入道して一法と称し、弟に江戸時代の中期に名工として活躍した出羽守法橋源光平(日置光平)がいました。また、越前守宗弘もいました。




V 「紀州石堂派」

 紀州石堂派は、土佐将監為康が近江から紀州和歌山に移住したのを祖とします。為康の長男に陸奥守為康、次男に紀州石堂派を代表する備中守康廣(富田五郎左衛門)がいました。また紀州石堂派で修業して大阪に移住した花房備前守源祐国や備中守康廣の門人である紀伊国康綱や江戸に移住した大和守安定などがいました。




W 「大阪石堂派」

 江戸時代の寛文年間(1661〜1673)に備中守橘康廣が、紀州から大阪に移住し、大阪石堂派の祖となりました。紀州において康廣の門下で修業し、大阪に移って大阪石堂派の一人になった刀鍛冶に河内守康永がいました。康永の門人に、大阪石堂派を代表する名工の多々良長幸がいました。




X 「京石堂派」

 近年の研究で、京石堂派は紀州石堂派が祖であることが判明しました。紀州石堂派の刀鍛冶で、京に移住し、江戸時代初期から三代続いた京石堂派という刀鍛冶に平安城石道助利がいました。二代目は八左衛門といいました。




Y 「福岡石堂派」

 江戸時代中期に筑前国(現福岡県西部の地域)を代表する刀鍛冶の一派の一つに福岡石堂派があり、その代表的な二人が、江戸石堂派の石堂左近是一に備前伝を学んだ従兄弟の是次・守次でした。特に守次は筑前守福岡住守次と銘を切り、最高級の刀鍛冶と称されました。





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